今年の僕の漢字 「続」2012年12月18日

 毎年、「今年を表す漢字」というのが12月に発表されますが、あの手のものは、どうとでもこじつけの理由をつけられます。今年は「金」ですね。他にもうちょっと適したものが何かありそうな気がしますけど。

 で、僕も漢字を選んでみました。もちろんたった一つの漢字ですべてを語れるわけはありません。いくつもの漢字、いくつもの言葉が思い浮かびます。その中から、とりあえず選んでみようということです。
 選んだのは「続」という漢字です。
 この文字そのものの価値やニュアンスは中立的で、いい意味も悪い意味も含まれます。それは使う人次第でしょう。
 まず、いい意味での「続く」。僕がものごとを「続ける」ことの大切さを強く感じるようになったのは、いつ頃だったでしょうか。歳を重ねれば重ねるほどそのことを思い、実行するように努めてきました。結局どんなことも、地道に続けるのは難しいものです。でも、続けることができたらそれはすばらしい。
 中途半端に終わってしまったことの方が多くて、続けられることはほんのわずかです。忍耐力がなくて、あるいは飽きてしまって、すぐに挫折してしまう。それでも続けること。そうやって、ほんのわずかでも、続けることのできるものがあったら、それはすばらしいことです。続けるために必要なものって何でしょう? 決断力、忍耐力……。それから、もう一つ、気張りすぎないことかなと思ってます。
 一方、悪い意味の「続く」。自分の思いとは関係なく(いや、ものによっては自分が原因で)、「続いて」しまうものもあります。病気にせよ仕事にせよ人間関係にせよ、また社会的な事件や課題にせよ、困った問題が続くのは、気が滅入るものです。自分の力が及ばないとなおさら気が滅入るし、扱いが難しい。でも、時に、それを受け止める必要もまたあるのです。できれば早く断ち切りたいけれど、そう簡単にはいかない。だったら、どうつきあうか、どうやっていい方向へ持っていくか、そんな工夫をしながら日々を過ごしていくこともまた大切です。終わらせることができるものはもちろん終わらせるように努めるけれど、自分の意志とは関係なく続くものを、どう主体的に引き受けるか。これといった処方箋はありません。一つ一つ対処していくしかないでしょう。
 と、こんなふうに「続」を巡って日ごろ考えていることを書いてみました。そしてこの漢字は2012年で終わるのではなく、来年もやっぱり「続く」のです。

思いがけないことの連続2012年03月06日

「人生は、良くも悪くも、思いがけないことの連続だ。」
 この言葉はあるとき心に浮かんだもの。確か、以前にもこのブログで書いたことがあるのですが、最近つくづくそう思うようになりました。私たちはつい「ものごとが思いどおりにいかない」と不平を言うことが多いのだけれど、実際には人生のかなりの部分が、思いどおりにいかないことで成り立ってるんじゃないか、と思うのです。
 そして、けっこうきつかったりもするけれど、実はその方が ある意味人生は豊かなのですね。「自分の思いどおり」ということは、ものすごく狭い自分の想像力や予定の中だけでことが進むと言うことだから、100%そういうふうに進むことはまずないし、現実世界はそんなに単純ではありません。それに人生のすべてが予想の範囲内で終わるなんてつまらないことです。
 思いがけないことがたまたま自分に都合のいいことだと、「ラッキー!」と喜んだりしますが、そう言うことは忘れやすいもの。逆に悪いことだったりするといつまでも心に残っていて、ああ、自分はいつも不運だ、どうしてこうもついていないんだろう、と嘆き、中にはその責任を周りになすりつけて、「どいつもこいつもバカばかりだ」と怒ったりする人がいます。
 でも、思いがけない事柄には、いいことと悪いことがほぼ半分ずつと考えていいでしょう。それに、いいと思えることが結果的に悪かったり、またその逆だったりすることなんてしょっちゅうだし。

 さて、この言葉を英訳してみました。決定した表現は以下のとおり。
 Life is a series of unexpected incidents for good and bad.

 英訳するとき、インターネットのGoogle 翻訳サービスで遊んでみました。Excite 翻訳にしてもこれにしても、いつもトンデモ訳で楽しませてくれます。これらのサイトはあくまでも遊び。頼ってはいけない。
 で、今回やってみたことは、出てきた翻訳を今度は和訳、それをまた英訳、と繰り返す遊びです。
 こんな風になりました。
「人生は、良くも悪くも、思いがけないことの連続だ。」
  ↓
Life, both good and bad, but something unexpected continuous.
  ↓
人生、良い面と悪い面が、予期しない何かを継続的に両方。
  ↓
Both continue to face what life and good, bad, unexpected.
  ↓
両方に直面し続けて何の人生、予期しない、良い、悪い。

 ここまで来ると、何かの判じ物かと思わせる、シュールな詩ですね。
 ずっと前に、I threw my back away. (ぎっくり腰になった)を訳させてみたら、「私は背中を投げた」という答えが出てきました。

まず始めること2012年02月25日

 Take the first step. And God will help you.
 まるで聖書か説教の一節みたいですが、実は名優Anthony Hopkins アンソニー・ホプキンスの言葉です。4年ほど前にどこかで見つけたらしく、ぼくの「なんでもノート」に書き留めてありました。
 さて、今日も走ったのですが、中4日あけ。ジョギングを習慣にしている割には、ぼくはヘタレで、走り始めるまでがおっくうで、走り始めてからも最初の3キロくらいはうんざりしています。それだったら走らなきゃいいのに、と言われそうですが、やめたくない理由もあるんですね。
 もう今日はやめようかな、と毎回思っているんです。情けないですね。それでも不思議なことに、ほとんどの場合、当初の予定距離は無事に走り終えて、ああよかったと安心します。というより、走ったあとは爽快です。ああ、走ってよかったと。

 私たちは掃除でも勉強でも取りかかるまでが大変で、グズグズと先延ばししたり、何もしないでおいたりすることが結構あります。もちろんしっかりとやることをすぐに実行できる人も多いでしょう。そんなふうになりたいと思うけど、どうやら持って生まれたものはたやすく変えることはできません。
 でも、脳科学者の池谷裕二さんが本に書いていますが、そのときには気持が乗るのを待つよりも、まず始めた方がいいようです。いやでも何でもとにかく始める。体を動かし始める。そうすると体を動かしているうちに、気持が乗ってきてリズムが出てきて、作業が平気になってくるというのです。それどころか快感さえ覚えるようになります。ランニングの場合はランナーズハイというやつですね。βエンドルフィンという脳内物質が出てくるのです。
 ぼくはランニングで毎回そのことを身をもって体験しています。とはいえ、すぐに 毎回同じ繰り返しをしているわけだから、発展のない自分だなあとあきれてもいるけれど、日常的に自分の発展のなさを確認できるのなら、まあいいかと思います。

 このこととまったく同じ内容ではないのですが、案ずるより産むが易し、ということわざは人間性の似たところをついているかもしれません。あれこれ不安に思うことは不毛な作業でしかありません。まず体を動かす。そうすれば、意外にたいしたことはない。そして体を動かしていることそのものが、不安を打ち消し、確かな道を開いてくれる。
 アンソニー・ホプキンスの言葉を借りるなら、「あとは神が助けてくださる」のです。


「絆」か……2011年12月13日

 今年の漢字に「絆」が選ばれましたが、ふーん、そうかなあという今ひとつ納得できない印象があります。無理してるというか、現実とはずれているような気がします。
 今年の流行語が「なでしこ」だったというのも変な感じでしたね。もはや数年前から、流行語大賞の流行語は流行語ではなくなっていると思います。正直なところ、今年の流行語は、ものすごい皮肉だけど「健康にただちに影響はない」だったのではないでしょうか。しかし、そのことを表立って言うことはできません。「絆」もそうだけど「なでしこ」も、夢や希望を持ちたいというみんなの理想としての言葉を挙げているだけですね。
 震災や原発事故があまりにも巨大で深刻で、日本人全体がおろおろしている実態を、むしろ露呈しているようにも思える、これらの選考結果でした。

気遣いと包み込みの日本語2011年09月13日

ここで話すことは、もしかすると、今までにもすでに何度か話してきたかもしれません。

 

何年も前に、日本語の本質的な特徴をひとつ発見しました。言語学者や日本語学者はすでに指摘しているだろうと思いますが、素人なりに気づいたことです。日本語は事実を伝えることや思考や感情の内容よりも、話す相手との相対関係を最重視する言語だということです。敬語が異常に、しかも独特の発展をしてきたのも、その特徴と関連があるでしょう。

日本語では、自分の言葉遣いは相手との関係で決まってきます。だから、相手との関係を見つけなければ(作り出さなければ)発語さえできない。日本語の小説や戯曲では、人物描写をしなくても台詞だけでその人の性別、社会的立場、性格がわかる、と言いますが、それはそのまま、まわりとの相対関係を表すものです。

子どものころ日本語の特徴についてこんなことを誰もがよく話してました。——日本語には主語が多い、たとえば自分のことを表すのも、英語なら"I" ひとつなのに、日本語は「わたし、おれ、ぼく、わし」とたくさんある、たいへんだなあ——。実はこれは、呼称も話し相手との関係で決まるのだという構造からくるのですよね。と、あるとき気づいたのです。「自分」は独立した存在ではなく、環境の中でどんな位置を占めているのか、が重要だと言うことです。日本語を学習する外国人がこんなにたくさんの単語を覚えるのは大変でしょうが。

相手との関係を重視し、気遣いを重視する(あるいは強要する)ことのわかりやすい例を挙げましょう。銀行でカウンターのどれかが閉まっているとき、英米なら"CLOSED" 、フランスなら"FERMÉ" 、の一語だけで表現されているでしょう。外国旅行をしたときにこれはわかりやすくていい。ところが日本語だと「まことに恐れ入りますが、お隣の窓口をご利用ください」と言ったような表現になります(もっと複雑で長ったらしい表現を見た覚えがあるなあ)。

工事中の看板もそうです。ていねいにお辞儀をしている人の絵入りで「たいへんご迷惑をおかけしていますが、ただいま~」なんとかかんとか、の文句が掲げられている。で、もしこれらの看板を「閉鎖中」とか「工事中」とだけ書いておくと、今度は消費者・利用者が腹を立てます。なんだ、このそっけなさはとか、 血が通っていないとか。

続きはまた今度。

どうしよう内閣2011年09月07日

 野田内閣が発足しましたけど、だれも期待していないんじゃないですかね。アメリカのNew York Times で日本の首相は「回転ドア首相 Revolving door prime ministers」と 
揶揄されています。怖いのは、日本国民は、それを異常とも何とも思っていないことですね。
 マスコミは「 なんとか内閣」という言葉を作っては喜んでいる。野田さんが首相に選ばれた日に、NHKの7時のニュースで「 東京のどじょう料理店では……」と、やっていました。こういうことを平気でやっているんですね。くだらない冗談につきあわされて、笑う気にもなれません。
 今朝の朝日新聞の「かたえくぼ」欄では「どうじょう内閣」という言葉が出ていましたが、つい先日ぼくは、テレビで右上の隅に「どじょう内閣」という文字が出ているのを見て、それが「どうしよう内閣」と見えてしまいました。
 何をするというより、1年持つかどうかの方が気になります。

成熟した妥協2011年04月13日

 「妥協する」……この言葉を否定的に捉える人は多いのではないでしょうか。ぼくもそうでした、若い頃は。たいした才能も根性もないくせに、妥協は負けることでしかない、と思ってしまっていました。妥協を許さない、と言えばかっこよく聞こえる。
 しかし、ちょっと立ち止まって考えてみたいのです。妥協する——それは生きていくための、かなり大切な要素なんじゃないか。成熟したあり方として妥協する。わたしたちはそれを目指すべきなんじゃないか。その技術(小手先のテクニックではなく)を真剣に身につけるべきなんじゃないか。それはかなりの知恵と忍耐力を要求するものです。
 妥協しないことの方が、実は安易な道なのだと言うことに気づく必要がある。「妥協は負けだ」というのは、実は自分の浅はかさを正当化する口実でしかなかったような気がします。今振り返ってみると。そして周りを見回してみると。妥協しないことがいいのだと信じ込んで、自己主張・わがままを押し通してるだけ、ということがけっこう多いのですよ。
 現実は、家庭生活においても仕事においても、ほとんどが妥協で成り立っているものなのです。人生を、自分が勝つか他者が負けるかの二者択一的な単純な勝負としか考えられないと、多くの場面で不必要な敗北感やみみっちい優越感に支配されて、結局は惨めな人生を送ることになる。それよりも、すぐれた妥協をすることの方が、より大きな視野で見たときに、より多くの人が幸福になるし、ものごとがうまくいくし、自分にとっても利益がある。知恵ある妥協を実現できた者こそがほんとうの勝者なのではないでしょうか。
 妥協するという言葉への偏見をなくすことが肝要です。そして、日々の生活の中で訓練していくと言うことでしょうね。理屈じゃなく、失敗を重ねながら。それ以外に、成熟した妥協術を身につける道はなさそうです。

よき力あるものに2010年12月28日

 年末は現実の厳しさを思わされる日々なのでしょうか。クリスマスは希望と喜びを与えられる行事のはずなのに、なぜか(特に日本社会では)現実から目を逸らすための刹那的な憂さ晴らしのひとときとして過ごされているような感触があります。
 パーティーが終わって光も熱も失せ、木枯らしや吹雪の中に人々が立ち尽くし、あるいはうずくまって震えている。そんな感じです。

 朝日新聞でおとといから「孤族の国」という連載記事が始まりました。NHKの「無縁社会」といい、この手の報道は確かに現実なんだろうけれど、なんだかみんなでことさら暗く沈み込んでいくようで、気が滅入ります。
 「孤族」という聞き慣れない言葉に誘われて、何気なく読んだ最初のエピソード……びっくりしました。
 ある駐車場に放置された車の中から、死後数ヶ月の中年男性の遺体が発見されたという話。この話、「信徒の友」2月号(1月10日発売)「漫画のススメ」で取り上げた『星守る犬』(村上たかし著、双葉社)のストーリーそのものなのです。できすぎた脚本のような、時期と内容の符合。フィクションがノンフィクションになってしまっている。
 マンガの解説と感想は雑誌をお読みいただきたいのですが(と、さりげなく宣伝)、とにかく寂しくなる話です。読後に、人がこんな最期を迎えていいのか?っていう、やりきれなさが残ります。
 同じく朝日でちょっと前に終了した「いま子どもたちは——つながる」も殺伐とした連載記事でした。第1回目の記事では、小学生のファッションショーに出てくる女の子を取り上げていたけど、だからどうなんだ?という気がしました。一見華やかそうでいて、でもその裏側ははてしなく空虚さを感じさせるのです。
 その殺伐さは題材だけじゃなく、記事そのものから感じられるものでした。つまり、記事を読んでも希望が与えられない。二つの連載記事は今の日本の負の側面を見せているという点で、それこそ「つながっている」印象を受けました。どちらも人の心や文化が貧しくて、子どもから大人まで、ビジネスとか景気とかいうものだけに踊らされている日本人の姿があるようです。

 クリスマスの季節(元来、1月6日まではクリスマスホリデーです)に思い起こすのは、ドイツの神学者・牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉です。讃美歌にもなっている詩ですが、その一部を紹介します。

 よき力あるものに、つねに静かに取り巻かれ、
 不思議に守られ慰められて、
 私はこれらの日々をあなたがたと共に生き、
 そしてあなたがたと共に新しい年へと歩んでいく。

 これは、第二次大戦中、ナチに抵抗して逮捕されたボンヘッファーが、獄中から家族に宛てた手紙に同封されていた詩なのだそうです。
 時代の苛酷さは、程度の差はあれ、昔も今も身近なところにあって、厳しい現実や人間の心のおぞましさに私たちはいつも直面します。20世紀後半の一時期、人々(特に、いわゆる先進国の人々)は自分たちのやっていることが明るい未来に続いているような幻想を抱いていましたが、それが思い通りに私たちを幸せにするのではないのだと、気づきました(気づいていない、あるいは気づかないふりをしている人ももちろんいる)。
 人間とか世界はどうやらそんなに単純ではないのだということですね。というか、科学技術が恐ろしく発展するのに反比例して、現代人は思考停止の道を歩んでいる。それが社会全体のいびつさの一要因になっているとも言えます。自分たち現代人のものの見方も、再検討した方がいいように思います。
 苛酷な状況にあるときに、ボンヘッファーのように平静で希望に満たされた心を持ち続けることができたらと思うのです。投げやりになるのでもなく、沈んでしまうのでなく、今できることを一つ一つやりながら、日々を過ごし、新しい年を迎えたいものです(なにやら、礼拝説教の結びみたいですね)。

 どうぞ皆さまにとっても、2011年が恵み豊かなものとなりますように。