無防備であること2011年12月07日


成虫、出てくる

 数年前まで、夏になると、子どもたちの夏休みの宿題を兼ねた楽しみで、チョウやガやアブラゼミの羽化の観察をしていました。これがなかなか面白い。生命の神秘を学べます。 季節外れの話題でごめんなさい。
 夏の夕方、家の近くを歩いていると、暗がりの地面を這っているセミの幼虫をたまに見つけます。つかまえて持って帰り、カーテンや植物の幹につかまらせると幼虫は登り始めます。ある高さまで来ると(どの高さという法則があるのかどうか、わかりません。ほっとくとどんどん登ってしまうこともあります)、ふと止まって、しばらくじっとしています。
 やがて背中が割れて、成虫が中から出てきます。その様子をカメラやビデオで撮影するのは結構忍耐を要する作業です。3年前に撮影した写真を掲載しておきます(ピンぼけですが)。

 出てきたばかりの成虫の羽は、白くてクチャクチャです。体も薄茶色。黄緑に縁取られた半透明の羽がとても美しいのですが、同時にその柔らかい体は、たやすく殺せるくらいにか弱いものです。
 完全に体が出たあとも数時間、セミは抜け殻にぶら下がって、羽が伸び、体ができあがるのを待ちます。この時間がとても大切なのです。チョウもそうですが、羽が伸びるのに十分な空間と時間がなければいけません。その間、成虫は何もできない。ただ、待つだけです。
 いつもいつも成功するわけではなさそうです。わが家で飼っていたカブトムシの1匹が、サナギの時に部屋作りに失敗し、土の中に広い空間をなかったために羽を伸ばすことができず、羽化のあと数日で死んでしまったこともありました。羽化がどれほど大変かを知らされました。
 ぼくはそれらの観察でわかったのです。生き物は、生きていくための非常に重要な行為、たとえば誕生(親の立場で言えば出産)、孵化、化、睡眠、あるいは生殖、といった場面では徹底して無防備であり、誰かに守られていなかったら生き延びることができないのだと。これはあたりまえのように見えて、実はあたりまえではなく、見過ごしてしまう真実だと思いました。

 よく人は「自立」ということを口にします。いつの時代からでしょうか。一人で生きていくことが大切で、強くなくてはいけないという前提が自明のこととされて、言葉の吟味もあまり行われずに、自立が論じられる。しかも一部の人たちは、自分たちが生まれてからずっと自立して生きてきたと錯覚して、その考えを人にも強要したりします。
 でも生命の本質的なあり方として、人間を含めたすべての生き物は、守ってくれる存在を必要とするのです。そのことを見過ごして「自立」を語るのは、どこか的外れなんじゃないかと、ぼくはこの頃から考えるようになりました。
 生物たちは、生命の節目節目で無防備になることをわかっていて、敵に襲われないように工夫して生きています。そしてそのリスクの高い時間だけは、どうしても何かに身を委ねて過ごさざるを得ないわけです。

 私たちは守られなければ生きていけない。生きることは そのまま、守ってくれる存在を必要とする ことなのだと思うのです。そのことに思いをはせることができるかどうかで、世界の見え方と過ごし方が、実は大きく違ってくるんじゃないでしょうか。

脱原発へ2011年04月20日

 僕が出入りしているFacebook はこのひと月、まるで大震災情報交換センターのようになってしまいました。僕自身の記事もそうです。特にここ2週間ほどは原発のことばかり書いています。
 今回の福島第一原発事故で悲しみと憤りと不安と焦燥の日々を過ごすようになり、どげんかせんといかんと思ったぼくは、原発のことを少しずつ勉強するようになりました。そしてわかったことは、自分がいかに原子力や核について無知だったかと言うことです。広島長崎の原爆のことさえ、知っていたことはほんの少し、しかしそれはどこか自分の意識の中では、遠い日の遠い場所の話と捉えていました。今の私たちに間違いなくつながっているのに、どうつながっているのか、ほとんど知らなかったのです。原発のことも、信用はしていなかったけれど、やむを得ない現実なのかな、という諦めに似た気持ちで見ていました。
 しかし、今はっきり言えます。原発にはNOというべきだと。
 つい先日読み終えた本があります。『内部被曝の脅威——原爆から劣化ウラン弾まで』(肥田舜太郎/鎌仲ひとみ共著、ちくま新書、2005年)。これを読むと、今私たち自身を含め、世界中のほとんどの人間が被曝していると言っていいくらい、危険な環境におかれていることがわかります。放射性物質とは何か、放射線とは何か、核エネルギーとは何か、それが人間や地球にどういう影響を与えるのか、そして、原発は安全だとかクリーンエネルギーだというのがどれほどの欺瞞か、がよくわかります。国が国民をいかに騙すかも。

 城南信用金庫の吉原毅理事長がつい先日、脱原発の宣言をしました。YouTubeで見られます。勇気ある発言です。それから、ソフトバンクの孫正義社長は事故直後から原発への不信を表明していましたが、つい先ほど、私財10億円を投じて脱原発・自然エネルギー開発の財団法人を設立すると発表しました。被災地に100億円の義援金を寄付したことは皆さんご存じですね。
 こういう人たちはほんとうに企業人の鏡です。希望が見えたような気がします。
 脱原発にせよ、憲法九条にせよ、沖縄基地問題にせよ、市民運動家が叫んでいると、熱心にやればやるほど一般の人たちは、自分たちには関係のないことさと冷ややかに眺めるだけで、結局いつまでたっても事態は動きません。山が本当に動くためには、一般の人たちが、問題を自分のこととして捉え(というより、気づいて)声を上げていくことが必要なのだと思います。だからぼくも地道に、自分にできることを一つ一つやっていこうと思っています。

 残念なのは、ぼくの郷里、福井県の態度です。福井には現在14基の原発があります。原発銀座と呼ばれています。高速増殖炉「もんじゅ」もあります。今回の福島原発事故で反対の声が高まるかと思ったら、まるっきり逆の行動に出ました。地元の敦賀市長が東京にやってきて、国に「原発増設の見直しはやめてくれ、生活できなくなる」と陳情したというのです。ありゃりゃー。
 真っ先に反原発の声を上げるべき人間が、こういう挙に出る。どういうことか。地方人独特の視野の狭さを感じました。あんな大事故が起きても他人事なんですね。福島は運が悪かったとでも思っているのか。自分たちだけは大丈夫さと、根拠のない楽観をしているのか。目先のこと、自分たちのことしか考えられない。権力のいいなり。それが地球規模で迷惑をかけることなど想像もできない。僕も同じ福井人なので、言わせてもらいましょう。この田舎もん! 
 さらにあきれたのは、福井新聞の社説。菅首相が原発見直しを発言したことを批判したのです。いったいそれであんたたちはジャーナリストか、と言いたくなります。いったいどっちを向いて新聞作ってるんだ。……そのことはFacebook にも書いたので、ここでは繰り返しません(って、もう繰り返したけど)。

 ぼくたちは、大変な時代に、大変な環境に生きているのですよ。そしてそれはみな、人間の欲望から生じたものなのですね。なんとかしなきゃ!

ていねいに思索する2011年04月05日

 震災後の生活の急変で心の整理がつかないまま日々を過ごしていますが(被災地の人たちに比べればずっとずっとましなはずのに)、被災地支援の活動も含めてあわただしく過ごしているうちに新年度になってしまいました。しかし、今日までの数週間は、速いと言うより、まだひと月たっていないんだという感覚の方が強いですね。
 地震以来、どうも文章を書きづらくなってきました。何かを書き始めると、そこから次々にさまざまな方向へ思考が発展していって、あれも書きたい、これも書きたいという思いにとらわれるし、一方で、これは書けない、あれも書けないという正反対の方向の力も働きます。言葉の選び方や使い方がつい慎重になります。

 自分の気持を後ろ向きにさせようとする力との闘いもけっこうたいへんです。何が最も心に重くのしかかっているかというと、原発事故です。
 テレビの(特にNHK の)ニュースにうんざりしていて、あまり見ないようにしています。原発のことを何だかんだ言っているけれど、結局本当のことは伝えていないんだろうなと思うから。東電も政治家もマスコミも、日本のこと・世界のこと・生きとし生けるものたちのことをまるで考えていないんじゃないかという怒りが、見ていてわき起こってくるのです。
 しかし、だからと言って、テレビをまるっきり見ないわけにはいきません。だから、新聞やインターネットなど、他のメディアも使いながら総合的にものを見ていきます。情報はどうしても必要だから何かは使わなくてはいけないのですが、何を使うにせよ、一面的に一つの情報源に頼るのではなく、複数のものを用いて、より正確なものを取り出すようにする。
 そのために私たちに必要なのは、単に情報だけではなく、判断や思索の仕方を教えてくれるものですね。その方法を身につけることが重要なのですが、でも意外に人はそのことを語りません。情報さえあればいいと勘違いしているところがあります。材料があっても料理の仕方を知らないんじゃだめですよね。
 今に始まったことではありませんが、生きていくときに、ていねいに思索することはとても大切だとぼくは思っています。ものごとを単純化せずに、複雑な現実をひとつひとつていねいに観察して、思いを巡らしていくこと。こんがらかった現実をできるだけありのままに観察し、分析し、そこから正しいものを引き出すこと。そういう姿勢を持ち続けたいと思います。
 こんなこと言ってるけど、ぼくは実はめんどくさがり屋で、適当なところで考えるのやめています(笑)。

 地震後もちゃんと走り続けています。参加を予定していたマラソンが相次いで中止になるものだから、直後はちょっとがっかりしたのだけれど、気を取り直して走り始め、元どおりのペースを取り戻しました。
 ランニングを再開したころ、自分なりに、くじけちゃいけないという思いで走りました。というか、地震を口実にして怠慢な自分に戻ろうとしてるんじゃないかとも思ったし。まあ、この辺の、がんばる勇気とがんばらない勇気のバランスもけっこう難しいんですけどね。これも一面的に論じるのはやめましょう。
 とにかく、再開ランのとき、走っている途中で、なんて今日は体が重いんだと、ちょっとひるんでしまいそうになりましたが、絶対にここで立ち止まらない。……そんなふうに自分を励まして、いつもどおり10km 走り通しました。
 今、全国的に自粛ムードが高まっていて、日本人はそういう空気にすぐ染まってしまうのですが(どこかの都知事は戦争状態が好きだから、自粛を強要する)、そういうムードが確実に人々の生きる意欲を侵蝕してしまっているところがあるように思うのです。無意識のレベルでそんな力が働いているのが特に怖い。だからやっぱりひるんではいけないと思います。ひるまないために、ぼくは走ります。それが被災地の方々に直接どんな力になるのかはわからないけれど、まずは自分の気力が衰えてしまうことを、なんとしてでも防ぎたいのです。
 体を動かしつつ、思考します。今の僕にとっては、走ることとていねいに思索することは、生きる両輪のようなものです。日本を再生させて、本当に良い方向へ持っていくためには、微力であっても自分にも何かはできるだろうと信じてやっていくのが一番いいはずです。

ただちに健康に影響はない2011年03月22日

 連日報道される原発事故のニュースで必ず聞かされるセリフが「ただちに健康に(人体に)影響はない」というものです。まさに耳タコ。今年の流行語大賞が早々と決まったのではないでしょうか。そして今年の漢字は? 

 かすみがうらマラソンの中止が今日、決定しました。予想どおりです。実は、板橋マラソンが中止になってから、意欲がかなり落ちていました。ハーフまでなら別にどうってことないのですが、フルとなるとそれなりに心も体も準備しないと実行できるものではありません。先週末もいつもどおり10km 走ったけど、フルのための練習として30km 40km を走る気力が今はありません。
 地震が微妙に心に影響を与えているようです。

 そんな中、「聖☆おにいさん」第5巻をトイレで読んだのですが(別にトイレでなくてはいけないわけじゃなくて、ふとんの中でも読んだんですけどね)、やっぱりこれは笑える。よく考えてますよ。いいマンガです。こんな日々に、それこそ救われます。

さて、何を語ろうか2011年03月22日

 ぼくが今まで生きてきて、、それ以前と以後で確実に世界は変わったと思われる事件(事故)が4つあります。最初は大学生の時、つきあっていた彼女にふられたこと(笑)、2つ目は86年のチェルノブイリ原発事故、3番目は2001年の9.11テロ。そして4番目が、今度の東日本大震災です。
 大震災の発生した3月11日が同時多発テロのちょうど10年後であること、そしてこのテロと半年違いの日付になっているのは、不思議な符合に思えます(アメリカがテロである点、日本が自然災害である点が、いかにもそれぞれの国情を表しているような)。
 そしてこの大震災は、あるジャーナリストも言ってますが、それ以前とそれ以後で、日本の歴史をはっきり区別するものになってしまいました。
 今、何を語るにしても、また今後何をするにしても、この事実から目を逸らして考えたり語ったりおこなったりすることは絶対にできないと思います。それくらい今度の地震、中でも原発事故は重大な意味を持つはずで、私たちは、そのことに鈍感でいることはできないでしょう。
 原発事故のニュースを見聞きしていると、日本も世界も、進む道の再考を迫られていると、ぼくは真剣に思っています。
 今、確実に日本の水と土壌は汚染され始めています。ジワジワと。「ただちに健康に影響はない」という言い方がくせ者です。「ただちに」ではなく、数年後、数十年後に自分だけでなく、子どもたちにも影響が現れていく(人体で最初に影響を受けるのは生殖器だそうです)。問題は放射線ではなく、放射性物質なのだということ。そのあたり、巧妙なトリックでごまかされているようで、私たちはもうちょっと勉強していった方が良さそうです。
 そして悲観的な予想としては、このような事態に至っても、日本の政治家や原子力関係者たちは、やはり原発を中止することなく推進しようとしていくような気がしてしまいます。

 第二次大戦で亡くなった人の数は、最後の1年だけで総数の半分を超えていたのだそうです。勝ち目のない戦いであるにもかかわらず、政治の中枢にいた人があらゆる場面で判断を誤り、国民を騙し続けて、国民を見殺しにした結果です。
 それと同じことを今、日本の政治家たちはやっているような気がします。民主党なんて自民党と何の違いもない。能力が低い分だけよけいタチが悪く、もっと悲惨な結果を招くのではないかとさえ思えてきます。

 しかしもし日本人が(外国籍の人も含めて、日本に住む人々が)賢ければ、もう一つの選択 Alternative があり得ます。この悲惨な災害と事故を教訓として(それは多大な犠牲を伴うものだったけれど)、欧米とは異なる形の豊かな社会(昔、日本はその一部を持っていたはずです)を築く方向に進めるのではないかという可能性です。言うまでもなく、そのための重要な条件は「脱原発」です。
 日本が地震や台風の自然災害の頻発する国であることを念頭に置いて国作りをすることを、もっと真剣に考えてはどうでしょうか。そして、もう一度、今度こそ本気で、真の豊かさとは何かを自分たちに問うて、他国をモデルとしない日本独自の、しかも普遍的価値を持つ健全な社会を作っていくことです。そうすることで、世界に向けて日本からしか発信できない英知を示すことができるような気がします。

 まだまだ考え、語らなければいけないことがあります。でも、変に深刻になると頭がおかしくなってくるので、今日はこの辺で。

生き延びるために2010年12月11日

 昔、兄が持っていた本の中に『生きのびるためのデザイン』(ヴィクター・パパネック著、阿部公正訳、晶文社、1974)というのがありました。読みはしなかったけれど、本棚を見るたびにこの背表紙のタイトルが妙に目を引き、言葉が心に残りました。
 デザインやイラストの仕事をやっていて思うことは、デザインはただの飾りではなく、生きていくために必要なものだということです。このことを忘れないでいたいのだけど、かといって、このテーマを深刻な顔で論じ始めると、問題は変質してしまい、デザインが堅苦しくなってしまいます。真剣ではあっても、同時にリラックスした姿勢をも忘れないでいたい。

 実は、私たちがやっているすべてのことは、生き延びるためのものなんだと、数年前に気がつきました。それは食べること寝ること排泄することに始まり、体を動かすこともそうだし、自然に触れることもそうだし、さらに、詩を読むとか絵を見るとか音楽を聴くという芸術行為まで含まれます。
 むしろ、サバイバルというときに、一見最初に切り捨てられそうなそういう活動が、実は、生き延びるためには必要なのだと、その時思いました。それは動物とは違う人間に課せられた(特権ではなく)栄養素なのです。猫はビタミンを摂取しなくても生きていけるが、人間は外からとらなくてはいけない。そういうことと似ていると思います。
 現代文明に生きている人たちは、その辺がいびつになってしまっているようです。どうでもいい部分が過剰になり、肝心なところがものすごく貧しくなっている。

 数週間前、新聞の投書欄で、ある高校生が同世代の言葉遣いについて、豊かな日本語を身につけようという意見を言ってました。こういうのって、すぐに優等生的発言ととられて、同世代からは「フン!」と軽くあしらわれるのかもしれないけど、主張そのものは至極まともなものでした。しかしその投書では、なぜ豊かな日本語のほうがいいのか、という根拠はややあいまいなように、僕には思えました。まあ、そこまでは求めないでおきましょう。ぼくだって、高校生の頃は何も分からなかったのだし。
 で、その投書を読んだとき、僕はふと思ったのですよ。豊かな言葉にしても、知識にしても教養にしても、それは、自分が生き延びるためにこそ必要なんじゃないかと。なぜ他者と共存した方がいいのか? その方が、あなた自身が生き延びられるのですよ、と。そのことに気づくと、生きていく真剣さが違ってくるんじゃないでしょうか。
 マスメディアは若者言葉を変に持ち上げたりしないで、乏しい語彙だけでコミュニケーション(コミュニケーションとさえいえないような貧しい会話)をやってる人たちに、それは結局は身を滅ぼすだけだよということを、もう少しはっきり言った方がいいと思うのですが、大人は大人で(マスメディアも含めて)やはり語彙が貧しくて、自分の所属する狭い世界だけに通じる言葉しか話さなくて、日本語論というと、敬語の使い方や漢字の読み書きばかりに終始しています。肝心なことが見過ごされているわけです。

 村上龍の新刊エッセイ『逃げる中高年、欲望のない若者』の広告を最近たびたび目にしているのだけど、広告にこんな言葉が書かれています。「成功を考えてはいけない。考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」ぼくはこの言葉にすごく共感します。今度、この本を読みたいと思います。
 村上龍さんの発言には、ぼくは共感することが多いのです。「日本には何でもある。希望だけがない」とか「敬語をなくせ」とか(いずれも『希望の国のエクソダス』より)。細かい部分での相違はあるでしょうが、僕が感じてきたようなこと、考えてきたようなことを、村上さんは言ってくれています。

 「生き延びる」という言葉も、人によって定義が少しずつ違うでしょうが、とりあえず生活の中心部分においてみると、意外な発見があるのではと思うのです。

PCB2010年12月03日

 「PCB」って、何のことかわからないですよね。ぼくが勝手に考えたものです。生きていく中で心に引っかかる言葉はたくさんあって、状況に応じていろんな言葉が挙げられるのだけど、ここでは仕事をするための(と同時に、生きてくための)キーワード、としておきましょう。
 よく、3つのCとか、3つのLとか、適当な英単語を並べて喜んでるCMやら企業のキャンペーンやらがあるけど、そのマネをしたわけではありません。そういう空虚な言葉遊びって嫌いなんです。英和辞典には、「PCB」はポリ塩化なんとかとか、プリント配線基盤とかの略語として出てます。あ、そんなのどうでもいい。
 ぼくがここでお話しするPCBは、以下の言葉です。

 P=Perseverance
 C=Communication
 B=Balance

 Perseverance というのは、英和辞典には「忍耐」と出ていますが、そういう風に覚えると意味を取り違えます。忍耐って、独特のイメージを思い浮かべちゃうでしょう。何しろ、日本人は我慢が好きで、どんなにいやなことも文句を言わずにじっと耐えるのが美徳だと思ってるとことありますから(またそれを強要したりする困った人たちが多いのも事実)。でも、ここで言うのはそういう「我慢としての忍耐」ではありません。
 この言葉を英英辞典(Longman Dictionary of Contemporary English)で調べると、次のように定義されています。
 Determination to keep trying to achieve something in spite of difficulties
 「困難にめげず何かを成し遂げようと努力し続ける決意」
 日本人が思い浮かべる「忍耐」と全然方向性が違います。こっちの方がずっと前向きでしょ。
 これって、一つ一つの目の前のことについても言えるだろうけど、長い目で見た場合の仕事の仕方や生きる姿勢についても言えるなと思って、しかもぼくはヘタレですぐくじけるから、このことを心がけようと思っているのです。

 次にCommunication 。これは仕事の基本だと、ここ10年くらい強く思うようになりました。特にデザインやイラストの仕事はコミュニケーションで決まると言っていい。それは、挨拶から始まるけれども、仕事をスムーズに進めたり、よりよいものを作り上げていくために欠かせない活動です。断っておきますが、挨拶と言っても、お歳暮やお中元を贈るという行為ではありません。
 特にコミュニケーションの重要性を痛感するのは、問題が生じたときですね、。私たちの毎日は、良くも悪くも思いがけないことの連続で、なかなか物事は計画どおりにいきません。自分がベストを尽くしていればうまくいくとは限らない。自分の努力とは無関係な原因で困った事態が生じることなんていくらでもある。むしろ、世の中、うまくいかないことの方が多いでしょう。
 問題が生じると、文句を言いたくなったり自分を責めたりするかもしれないけれど、大事なのはいい方向に修正しようという意志。そこで、当事者同士で日ごろから丁寧なコミュニケーションをとっているかどうかが、軌道修正や仕事の仕上がりに大きく関わってくるわけです。

 3つめのBalance は、ここでは考え方や心のバランス感覚のことです。これは「成熟」と深く関わってくることで、若い頃にはなかなかつかみにくいかもしれません(スポーツをするときの「体のバランス感覚」は若いときの方が優れているでしょうね)。それは経験が少ないことから来るハンディキャップの一つと言えます。若いときは右か左か黒か白か、決めつけて安心したがる傾向があります。宙ぶらりんの状態に耐えられないのです。しかし一見潔さそうだけど、そういう二者択一的な単純思考はちょっと危ない。
 バランス感覚というのは、どっちつかずということではありません。バランスをとるには体力も精神力も要求されるのです。キャパが小さくて中途半端なことしかできないというのはまさにどっちつかずで、それは困ります。でも、いろんなことを少しでも広く深く見ることができるようになって、忍耐力も養われると(いい意味での忍耐ね)、数ある選択肢のどのあたりに決定すればいいかという判断力がつくし、また、人間やモノとの関係の中で力の配分ができるようになります。

 繰り返しますが、こういうことをぼくができているというのではなく、心がけているということです。ぼくはどうがんばったところで、死ぬまで「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」のジタバタした生き方しかできないと思いますから。
 しかし、それでいいのだー。

『悪魔のささやき』2010年11月20日

 10日ほど前に、加賀乙彦さんの『悪魔のささやき』(集英社新書)を読み終えました。これは、先日紹介した『不幸の国の幸福論』のあとがきで言及されていた本で、位置づけとしては「不幸の国〜』が『悪魔の〜』の内容をさらにわかりやすく解説したものだということです。ぜひ読みたいと思い、ブックオフで買ってきました。現代日本人の精神を分析しながら、ではどう生きていけばいいのか、ということを語っています。
 内容としては、両方をセットで読むのがいいでしょうが、個人的にはこちらの方がさらに面白く読めました。日本の近現代史を振り返りながら、精神科医である加賀さんの豊富な診療体験をもとに人間性が分析されているだけに、説得力があるのです。

 犯罪者がよく使う言葉に「あのとき悪魔がささやいた」というのがあります。私たちもよく聞きますよね。日常会話の中で冗談で言うこともある。しかしその言葉は単なる口実ではなく、実際にそうとしか言いようがない状態になることがあるというのです。「魔が差した」という言葉も使われるけれど、こちらがほんの短い時間の精神状態をさすのに対し、「悪魔のささやき」は一定の期間続くものだそうです。
 そして、これは実は他人事ではなく、だれでも経験する可能性があるのです。個人的な犯罪だけでなく、集団で破滅的な行動に走ることもある。特に日本人はそういう風になりやすい。それは、自分で考えることをせずに、まわりの空気に流されて動いてしまうことが多いからだと、著者は言います。その具体例が第二次世界大戦。
 では戦争に負けて日本人は変わったかというと、まったく変わっていなくて、同じことを繰り返している。1960年代の学生運動もそうだし、近年で言えばオウム真理教事件がそうです。加賀さんが麻原彰晃に面会した様子も報告されています。
 こういう状況を変えるためには、一人一人が自分の頭で考える「本物の知」を鍛える必要がある、と著者は主張します。そのテーマが続編『不幸の国の幸福論』につながるのですね。

 この本では個人的な犯罪と戦争のような集団的な犯罪との違いまでは述べられていません。そのあたり、もう少し詳しく調べてみたい気がします。
 また、まわりに流されやすいのは決して日本人だけとは、ぼくは思いません。最近、お隣の国で頻発しているデモのニュースなどを見ていると、人が思考停止して周りの空気に流されて動くことは、どの国にもあるのだと痛感します。でもだからといって、お隣と比較して「あいつらよりましだ」と言ってても、何ひとつよくなりません。割合としては、欧米人に比べるとアジア人はそういう傾向が強いのではないかと、ぼくは個人的に思っています。アジアの文化は個を育てることをしてきませんでしたから。今もあまりしていないでしょう。
 ただ、日本人も、ほんとうに根っこの部分では変わっていないなというのは、ぼくのこれまでの体験からだけでも十分に言えることで、自分の世代を見ていても若い人たちを見ていても、そう感じます。近頃の世相を見ていて、うんざりするほどそう思います。
 悪魔にささやかれたときに(わたしはそんなことはない、と自信を持っている人が一番危ないそうで)、対抗できる力を自分の中に持つこと。これが大切なのですね。
 ここでまたぼくは言語の問題に入っていきたいのだけど、それはまた今度。