ルリマツリ2012年09月10日


教会の庭に咲いています

 きのう、教会で昼食のあと、次の集会までちょっと時間があったので、庭に咲いていた花をスケッチしました。ルリマツリという名前を、あとで人に聞いて知りました。現物を見てサインペンで輪郭をとり、その写真を撮って、着彩は夜、写真を見ながら家で。水彩です。でも、輪郭をとっている間も、色を記憶するようにします。写真だけに頼るのは良くない。
 毎週教会に行っているのに、庭の花をじっくり観察することをあまりしていなくて、見過ごしていることが多いと、改めて感じました。絵を描こうと思い立つと、そのことがよく分かります。自分は日ごろ何も見ていないのだと。この素朴で可憐な花も、スケッチし始めたら細かいところの美しさを発見して、驚きと感動がありました。ああ、やっぱり自然は素晴らしいなあと。

 自分の絵について、いつも多くの問題意識を抱えています。
 着彩について言うと、コンピュータでの作業ばかりが続いていて、ストレスが溜まっていました。コンピュータは所詮、均一な線と色しか出せませんから。味気なくなってくるのです。
 また、線について言うと、輪郭は手描きでやることがほとんどですが、スケッチから生み出される線を大事にしたいと思います。ところが同じスケッチでも、電車でサインペンによる人物スケッチをよくしていますが、あればかりやっていると、また精神的によくないのです。モデルがいついなくなるか、またポーズを変えるか分からないという焦りと不安を絶えず抱きながら作業をしているからです。それはそれなりの面白さもあるのですが、そればかりだと心臓に良くないし、線にも影響が出てくるでしょう。
 
 この二つのストレスを解消するために、少し前からやっていることは、まず、水彩絵の具をもう一度積極的に使い始めたこと。次に、機会を作り出して、花や昆虫のような、じっくりと腰を据えて描けるものを描くようにし始めたことです。

ゆく年、くる年、また走る敏2011年12月30日

 いよいよ今年も終わりです。昨日、年賀状の印刷が終わりました。今日は一言を添えて宛名書きをする予定です。結局、毎年 ギリギリになって作っています。以前は、イラストレーター・デザイナーなのに、こんなんじゃだめだなという出来が多くて、いつも情けない思いをしていたので(あーあ、自分の実力なんてこの程度か、と)、近年は少し力を入れるようになりました。
 びっしり描き込むかどうかよりも、アイデアとセンス、そして全体の仕上がりがプロとしての最低ラインをクリアしていること、それが重要です。
 年があけましたら、去年と同じように、年賀状をこのブログで掲載いたします。
 
 年末に生真面目・深刻な話で締めくくるのもどうかとは思いますが、どうしても一つ整理しておかないといけないと思っていることをお話ししたいと思います。これは独り言です。ですからつまらないと感じられたら、お読みにならなくて結構です。

 この一年、やはり大震災と原発事故が僕の上に大きく覆いかぶさっていて、日本全体もそうだろうけど、僕自身の生活や仕事にもその影響が出ました。それはこれからもずっと続くでしょうね。物理的にも精神的にも。
 直接被災したわけじゃないのに、重苦しい鉛のようなものがずっと心のどこかにのしかかっている日々でした。……でした、と過去形にできればいいのですが 、まだ続いているかもしれません。
 特に大きく重くのしかかったのは原発事故で、その後の日本全体の動きを見ているうちに、日本人の意識構造が戦前からほとんど変わっていないんじゃないかという思いにとらわれるようになりました。以来、政治にもマスメディアにも強い不信感を抱いています。以前にも増して、テレビを見る気がしなくなっています。
 日本にほんとうのジャーナリズムはないのかもしれない、という確信を抱くようになりました。原発に関して、メディアは政府の大本営発表を垂れ流すだけ、そして「国民」はそれを疑いもせず(いや、疑っている人は間違いなくいたのだけど、耳を貸す人は少なかった)、将来は大丈夫と、根拠なく信じて暮らして来たのですね。それはまったく戦前と同じではないかと思っています。
 自分も含めて、あの敗戦から日本人は何も学んでいなかったのかと、ちょっと絶望的になります。

 でも、実は希望もちゃんと持っているのです。まるっきり悲観的になってるわけではありません。現実を直視しながら、でも希望を持ち、行動する、ということですね。それが大事だと思っています。正しくものが見えて、しっかりと行動している人はたくさんいるし、まわりや目の前のものをきめ細かく見ていけば、可能性はそこらじゅうにあることがわかります。そして、もう一つ重要なのは、歴史から学ぶことでしょうね。そのことが、指針を示してくれるのです。

 今年、エントリーしていたマラソンが3つとも大震災のために中止になり、どこかで少しずつ走る意欲を失っていました。忙しさを口実に、走る回数を減らしていました。完全にやめてはいませんでしたが。
 でも、年の暮れにまたランニングを復活しています。以前の状態に戻りつつあります。新しい年には「また走る敏」でやっていきます。

 このブログを訪れてくださる皆さま、今年一年もありがとうございました。心から感謝いたします。どうぞ来年もよろしくおつきあいください。
 2012年が皆さまにとっても実りのある年となりますように、お祈りしております。

いしいひさいちとしりあがり寿——線のこと2011年10月15日

 朝日新聞の連載漫画「ののちゃん」が20周年を迎えたそうです。先日、1ページ大で特集が組まれていました。
 その中に、ののちゃんによるいしいひさいちさんへのインタビューがありましたが、これがいつものノリで笑えました。
 この人は絶対に素顔を見せず、徹底して作品だけで勝負しています。ものすごいプロですね。作家にもそういう人がいますけど、その姿勢を貫くのはなかなか難しいのではないかと思います。まあ、人それぞれにスタイルがありますから、どのやり方が正しいというわけではありませんが。
たとえば一つすごく感心するのは、「ののちゃん」が一度も大震災を扱っていないこと。これはかなりの勇気がいることだと思います。逃げているのでなく、あえてそうしているのでしょう。この人の漫画の感触にはそう言うところがあります。大震災を扱うことで、ヒューマニズムが変な風に混入してしまうことを拒絶しているような気がします。私の本分はばかばかしくクールなお笑いを読者に提供すること、そう覚悟してやっているのではないでしょうか。
 いしい漫画の魅力はたくさんありますが、ぼくはその一つに描線を挙げたいと思います。こういう線って描けないなあと思うのです。人物だけでなく、建物や自然の背景も驚くような簡潔な表現を用いています。そしてどこまでも、いしいワールドであり続けている。線がきれいですね。この線、フリーハンドで描いちゃうんだって、よく感心するんですよ。
 新聞の四コマ漫画のような、基本的にモノクロで勝負する人たちはやはり線が魅力的な方がいい。その点でぼくはどうしても某読売新聞の朝刊の漫画は好きになれないのです。
 
 さて一方、夕刊の「地球防衛家のひとびと」もぼくは好きなのです。朝日新聞にヨイショしているわけではありません。たまたまこの二つの漫画がぼくの気に入ったと言うだけのこと。
 この人についても、線のことについてのみ、ここでは触れます。
 この人は若いときにいわゆるヘタウマ路線を志向し、それをずっと続けています。いしいひさいちさんとはまったく違った(線も内容も)漫画ですが、これがまた勇気ある姿勢なのですね。普通、凡人は中途半端に上昇志向があるから、絵が上手になりたいと思い、努力します。正しく努力できればいいのだけれど、変にごまかして小手先でうまそうに見せようとすると、非常に見苦しい、いわゆるクサイ線になります。実例を挙げると、昔の森田拳次さんの漫画はそうでしたね。
 だから、変にうまくなりそうなところをぐっと抑え、あえてうまく見えないようなレベルにキープしていくというのは、かなりの力量とか度胸がなくてはできません。
 しりあがり寿さんの場合は大震災以後、逆に徹底して大震災や原発事故を扱っています。テレビのニュースでもそのことを語っていました。そのことにはここでは触れませんが、ぼくにとって印象的な絵がありました。しりあがりさんが被災地支援のボランティア活動に行ったときの様子が、数日間作品になっていたのですが、被災地の風景が描かれていて、それがやはりあの人らしい線で、でも、見事にがれきや崩れた建物など表していたのです。ああ、さすがにプロだなと思いましたね。
 
 うまい線ではなく、味のある線を描きたいものだと、この人たちを見ていて思うのです。


裁判のスケッチ2008年12月11日

 テレビや新聞で裁判のニュースが報じられるとき必ず出てくるのが法廷内の絵です。被告や裁判官の姿が描かれています。画家によってタッチが違うところが面白いのですが、先日たまたまBS1でアメリカのABCニュースを見ていたら、向こうの裁判のニュースでスケッチが出てきました。9.11テロの裁判です。そのとき僕は、日本人の画家の中での違いを超えて、西洋と日本の絵の違いをはっきりと感じ取りました。
 アラブ人らしき被告や陪審員と思われる人たちが描かれていましたが、その絵は、日頃見慣れている日本人による法廷スケッチとは大きく異なっていたのです。アメリカの絵は、パステルを用いて油絵のように上から塗り重ねる手法です。立体が基本にあって、面を意識して描かれているのです。水彩を使うとしても、きっとこの考え方は同じでしょう。日本では、まず輪郭があり、そこに水彩で色を載せるというやり方がほとんどです。西洋画と日本画の違いがこんなところにもしっかり出ているのですね。当たり前と言えば当たり前。でも彼我の違いが意外なところでまた新鮮に、僕の目には映ったのでした。
 ぼくも絵を描くときは線描派ですから、日本人のDNAが流れているのです。

 ところで、裁判のスケッチというのはけっこう大変な作業のようです。以前、何かの番組で紹介されていましたが、写真撮影はできないから、裁判が始まるまでの短い間で、ササッとスケッチをして、アトリエに戻ってから着彩をして仕上げるのだそうです。ニュースに間に合うように短時間で仕上げなければいけないから、記憶力と迅速性が勝負ですね。単に絵が描ければいいというものではなく、慣れていないとできない。その道の専門家の仕事なのです。