2枚目の絵 ― 2012年05月07日
昨日、教会で創立記念演奏会がありました。シンガーソングライター兼牧師の陣内大蔵さんを招いて。いつものことながら、大変楽しい乗りのいいコンサートでした。この方、2003,2004年の2年間、神学生として私たちの教会に奉仕に来てくださっていて、それ以来、私たち教会員と親しい交流が続いております。
私は一番前の席にいて、撮影係も
やっていたのですが(と言っても、たいした仕事ではない。ただ写していただけ)、撮影の合間、演奏を聴いているときに、そうだ、スケッチを忘れちゃいけないと思い出し、さっそくスケッチブックを取り出しました。
描き始めたのはいいけれど、だんだん自分の絵が嫌になってきました。はっきり言って、こんなんじゃだめだよ。線が萎縮している。自分の力のなさにがっかりしてきました。
何がまずいか? 失敗を恐れているのです。線がうまく引けず、形が崩れること。さらに、顔が似なくなること。似ていないと、見る人に認めてもらえないんじゃないか。こういう恐れは今に始まったことではありません。ときどき顔を出す悪い癖です。とりあえず描き終えたものの、……失敗でした。
しかし、そこでもう一度気を取り直して、新たにもう1枚描くことにしました。もう似ていなくていい。線が生き生きとしているかどうかが何より重要。1枚目では腰まで描きましたが、2枚目は顔だけを描くことにしました。それがここに掲載した画像です。
開き直ったら、描けました。おそらくご本人は(いや、他の人たちも、ファンの方々も)ちっとも似ていないと言うでしょう。だからこれはFacebook には載せません(笑)。絵として成立しているかどうかが大切なのです。何をもって「絵として成立している」と言うのか、判断が難しいのですが、これは極めて個人的な内部の判断基準です。言葉にしづらいのですが、自分で「これはだめ」「あ、これならいい」と思える基準があります。絵を描いている人にはすぐにわかってしまうでしょう。いや、見る人にもわかるな。
人物を描くときによけいなことを気にして、線が死んでしまうことがときどきあります。もっと、描く対象にどんと踏み込まなくてはいけない。こぎれいに絵をまとめようなんて小細工に逃げるのではなく、雑念を払って、対象を描かせてもらう、そういう気持。この2枚目で、やっとその目的を少し果たせたかなと思います。
でも、2枚目だから二枚目でしょう(笑)。やば。また無意味なオヤジギャグが……。
安野光雅の絵本展 ― 2012年03月17日
「安野光雅の絵本展」を昨日、見に行きました。板橋区立美術館で開かれています。今月25日まで。
いい展覧会は、人を慰め、気持をワクワクさせ、新しい方向へ押し出してくれる力があります。この展覧会もそうでした。知的で、いい意味の品の良さを感じさせる、柔らかい線と色の原画を眺めながら、しばらくの間、安野ワールドに浸ることができました。しかし、ひとくちに安野ワールドと言っても、ものすごい広がりと奥行きを持っていて、とても一言で語ることはできません。
すぐれた表現者は皆そうなのですが、新しいものと伝統を見事に融合させます。具体的に印刷技術の観点から説明しましょう。
今の時代、デザインやイラストの世界ではコンピュータがなくては仕事ができませんが、ややもすればコンピュータにおんぶした安易な作品しか作らなくなってしまうことがあります。それには時間や費用の制限がもちろん要因の一部としてあるのですが。
一方で、コンピュータという文明の利器を、やみくもに毛嫌いする人もいます。
かたくなに昔のやり方を守り続けるというやり方。それはそれで一つの方針としてありうるのですが、人によっては、実は新しい考え方についていけない、頭が固くなっているだけ、ということもあるのですね。そういう人たちの作品はたいていつまらないものです。
で、すぐれた芸術家は、時代の新しい技術を使いつつ、同時に古くからの伝統も研究して、それらを調和させて、よりレベルの高い作品を作っていくのです。画家であり、デザイナーでもある安野さんは、それをやっているわけです(他にも、太田大八さん、堀内誠一さんもそういうタイプ。詩人で言えば、谷川俊太郎さん)。
ぼくは日ごろの自分の仕事が、安易にコンピュータに乗っかったものに流れてしまっていることを、安野さんの作品を見ながら、つくづく思わされたのです(いつもうすうす感じてはいるけれど)。手作りを大切にしつつ、印刷の特性もちゃんと生かして、洒脱な表現を掘り下げていく姿勢は、見ていて頭が下がります。
加えて、数学的発想。ぼくの苦手とする分野。しかし、その数学の面白さを絵本で楽しく伝えようとする姿勢にもまた感服するのです。
さらに安野さんは、すぐれた文筆家でもいらっしゃる。味わいのある文章を書かれます。古典の素養もお持ちだから、言葉への感覚が鋭い。
ああ、やっぱり一言では書ききれない。またどこかで続きをお話ししましょう。
いいですね。こんな生き方ができたら。
年始のご挨拶 ― 2012年01月01日
紫玉葱 ― 2011年10月29日
ひよどりじょうご ― 2011年10月27日
ザクロをくださった方が僕の描いた絵を気に入ってくださって、先日、挨拶に来てくださいました。そして「実は今日、事務所にひよどりじょうごという植物を飾っているんですよ」とおっしゃって、それを持ってきてくださいました。
ひと枝分けてもらったので、今日描きました。
これは山に自生するつる性の植物なんだそうです。夏に白い小さな花を咲かせるそうですが、もう季節的に終わってしまいました。来年見たいと思います。とても日本風な植物ですね。
スケッチを再開してから、ひと月以上たちますが、それと引き替えにできなくなったのが、読書です。最近、まともに本を読んでません。目の前の仕事は当然やらなくてはいけないし、家事もしなくてはいけない。
何かを選んだら、何かを捨てなければいけないのでしょう。誰にも1日に与えられた時間は24時間だけですからね。そんなふうに優先順位を決めながらやっていくのが大事なのだと、つくづく思います。悩ましい問題です。ランニングも続けたいし。
と、そんなことを考えながら、スケッチをとにかく増やし始めているのです。
ザクロ ― 2011年10月19日
きのうNCCで仕事をしていたら、ある委員会のミーティングに来ていた男性が、帰りがけに「みなさんでどうぞ」とザクロをくださいました。季節もの。すごい!
見たら思わず描きたくなりました。3個のうち2個、サインペンで描いて、写真を撮って
、色つけは今日、自宅でやりました。
でも、食べるの忘れちゃった。今度その事務所に行くのは金曜日。ザクロはその日まで残っているでしょうか?
初めは軽くスケッチして終わろうと思ったのですが、描き始めたら、しっかり細部を抑えたくなってきて、それで線を描き終わったら、今度は色をつけたくなりました。ぼくが何かを描いたり作ったりするとき、こういうパターンが多いようです。やってるうちにどんどんはまり込む。
でも花や果物や野菜の絵は、やっぱり色をつけたくなりますね。
スケッチや水彩の着彩の感覚がまた戻って来ました。うれしいことです。コンピュータだけでの作業は、どこかしら寂しい気がしますから(それはそれで、とても楽しいのですが)。
娘の話を聞くと、最近の若い人たちはほんとうにコンピュータだけで最初から最後まで制作しているらしいんだけど、素晴らしくよく描けている絵が多いのですが(最近の人たちのテクニックはすごいから)、彼らの絵に似たような印象があるのは、デジタルonly で作っているせいかもしれません。アナログのホッとする部分がないんですよね。
いしいひさいちとしりあがり寿——線のこと ― 2011年10月15日
朝日新聞の連載漫画「ののちゃん」が20周年を迎えたそうです。先日、1ページ大で特集が組まれていました。
その中に、ののちゃんによるいしいひさいちさんへのインタビューがありましたが、これがいつものノリで笑えました。
この人は絶対に素顔を見せず、徹底して作品だけで勝負しています。ものすごいプロですね。作家にもそういう人がいますけど、その姿勢を貫くのはなかなか難しいのではないかと思います。まあ、人それぞれにスタイルがありますから、どのやり方が正しいというわけではありませんが。
たとえば一つすごく感心するのは、「ののちゃん」が一度も大震災を扱っていないこと。これはかなりの勇気がいることだと思います。逃げているのでなく、あえてそうしているのでしょう。この人の漫画の感触にはそう言うところがあります。大震災を扱うことで、ヒューマニズムが変な風に混入してしまうことを拒絶しているような気がします。私の本分はばかばかしくクールなお笑いを読者に提供すること、そう覚悟してやっているのではないでしょうか。
いしい漫画の魅力はたくさんありますが、ぼくはその一つに描線を挙げたいと思います。こういう線って描けないなあと思うのです。人物だけでなく、建物や自然の背景も驚くような簡潔な表現を用いています。そしてどこまでも、いしいワールドであり続けている。線がきれいですね。この線、フリーハンドで描いちゃうんだって、よく感心するんですよ。
新聞の四コマ漫画のような、基本的にモノクロで勝負する人たちはやはり線が魅力的な方がいい。その点でぼくはどうしても某読売新聞の朝刊の漫画は好きになれないのです。
さて一方、夕刊の「地球防衛家のひとびと」もぼくは好きなのです。朝日新聞にヨイショしているわけではありません。たまたまこの二つの漫画がぼくの気に入ったと言うだけのこと。
この人についても、線のことについてのみ、ここでは触れます。
この人は若いときにいわゆるヘタウマ路線を志向し、それをずっと続けています。いしいひさいちさんとはまったく違った(線も内容も)漫画ですが、これがまた勇気ある姿勢なのですね。普通、凡人は中途半端に上昇志向があるから、絵が上手になりたいと思い、努力します。正しく努力できればいいのだけれど、変にごまかして小手先でうまそうに見せようとすると、非常に見苦しい、いわゆるクサイ線になります。実例を挙げると、昔の森田拳次さんの漫画はそうでしたね。
だから、変にうまくなりそうなところをぐっと抑え、あえてうまく見えないようなレベルにキープしていくというのは、かなりの力量とか度胸がなくてはできません。
しりあがり寿さんの場合は大震災以後、逆に徹底して大震災や原発事故を扱っています。テレビのニュースでもそのことを語っていました。そのことにはここでは触れませんが、ぼくにとって印象的な絵がありました。しりあがりさんが被災地支援のボランティア活動に行ったときの様子が、数日間作品になっていたのですが、被災地の風景が描かれていて、それがやはりあの人らしい線で、でも、見事にがれきや崩れた建物など表していたのです。ああ、さすがにプロだなと思いましたね。
うまい線ではなく、味のある線を描きたいものだと、この人たちを見ていて思うのです。
手を描く ― 2011年10月11日
人をスケッチするときはなるべく手を描くようにしています。
手はどういう描き方にせよ、難しいのです。人物だから当然顔の描写には力を入れる。でも手になると、難しさと面倒くささでつい手を抜いてしまいがちです。文字どおり、「手を抜く」。
でも、手がきちんとかけていないと、絵全体をダメにしてしまうものです。
Facebook に掲載しているのと違う絵を載せてみました。あっちが主流になってもつまらないので。
電車内のスケッチは、いつも言ってることですが、予測不能の、限られた時間の中でどれだけ描けるかが勝負です。で、今回の下に描いてある人物は、顔より先にとにかく手を描いてしまおうと思いました。モデルが真正面なので、顔が描きづらいというのも理由の一つですが(笑)。
娘の話「電車に乗っている人の手は自然な形していることが多いから、描くのにいいんだよ。絵を描くためにモデルになってもらうと、どうしてもどこかで緊張した形になってるから。」
確かに。






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