MANGAが衰退?2011年02月09日

 朝日新聞が隔週月曜に発行している「GLOBE」という特集ページがあります。ぼくはトピックによって読んだり読まなかったり。今週は「MANGA 宴のあと」というタイトルで、海外でマンガブームが終わろうとしているという内容の記事でした。
 はっきり言って、それほど面白くなかった。
 どんなことについても言えるのだけど、経済面での右肩上がりしか受け付けようとしない姿勢そのものに無理があるんじゃないかと思うのです。だから、今回の記事も「だからどうなの?」と言いたくなってしまう。So what?

 マンガに特別な思い入れを持ってきたわけではありませんが、ぼくが一つ確信しているのは、日本はたぶんこれからも独創的なマンガ文化を発展させていくだろうということです。前回のFacebook の記事で少し述べた「日本文化のガラパゴス化」に関連することですが、日本の精神性とか文化は、良くも悪くもユニークなようです(私たち日本人がそれを言うと、また外国から反感を買うのですが)。地政学的要因、歴史的要因が絡んでいるのでしょう。
 コミックスはこの日本人の独特の精神性や歴史の中から生まれてきました。特に戦後、手塚治虫によって確立されたマンガは、日本でしか成立し得なかった文化ですね。だから中国や韓国がどれだけ技術的な側面で日本のマンガを模倣したところで、根幹部分では、自国に移植することはできないでしょう。移植されたとき、それはそれぞれのお国柄にあった別種の「マンガ」になるのです。だから、日本独自のマンガは元祖としてこれからもユニークなものを生み出し続けるに違いありません。

 もともと日本人は、マンガがこれほど世界に受け入れられるとは思っていなかったのではないでしょうか。マンガをさげすんでいた欧米志向の日本の知識人たちは、カラオケやマンガが現代において日本の世界に誇りうる輸出文化であることを、受け入れようとはしないでしょう。
 ところが、その知識人たちの(自虐的な)期待に反して、サブカルチャーが外国で受け入れられたのです。受け入れられたと言うことは、マンガは(そして日本文化は)ユニークでありつつ、同時に普遍的なものも持っているわけです。浮世絵と同じですね。世界に認められたというのは嬉しいことです。それはそれで大いに喜ぶべきことです。
 でもブームというものは、いつか終わるものです。「ブーム」は去ってもいいじゃありませんか。それはマンガという文化が終わると言うことではないのだから。経済的な視点だけで物事を論じる必要はない。今の時代、特にマスコミはこの基準でしかものを見ていない傾向があるから、困ったものです。
 浮世絵が今なおすぐれた日本文化として生き続けているように、マンガだって、栄枯盛衰はあれ、そしてもしかして今の形態とは異なる、予想を超えたものに変質していくとしても、これからも日本を代表する文化であり続けるのだと思いますよ。

漫画のススメ さてこのあとは2011年01月27日

 「信徒の友」に掲載させてもらっていた「漫画のススメ」が来月10日発売の3月号をもって終わります。最終回は『火の鳥』を取り上げました。連載の最初と最後は手塚治虫先生の作品と決めていました。
 4月からは同じ出版局の「心の友」という新聞のような月刊紙に、アジア映画のDVDについて、マンガの時と同じような視点で紹介記事を書かせてもらうことになりました。感謝。
 キリスト教信徒向けの雑誌にこういうマンガ紹介記事を書かせてもらったのはありがたいことです。編集部の英断を讃えます。マンガというと、とかく、生真面目で頭が固くていわゆる信仰熱心なキリスト者の中には、読む前から(読もうともせずに)嫌悪感を表す人がいるだろうし、ましてやマンガの内容があまりキリスト教と関係ないものだったりすると(ほとんどがそうだった)、「こんなものを掲載する意味はあるのか?」と思うに違いありません。
 幸い、そのような声は今回ぼくの耳には入ってきませんでした。もしかすると、編集部の方々がそのような声を止めてくださっていたのか、あるいは読者のだれも歯牙にもかけないような連載記事だったと言うことか……。

 さて、しかし僕自身としては、「漫画のススメ」のおかげで、せっかくマンガのフィールドに戻ってきたのに、連載記事が終わるからというので、たった1年でこのままマンガと「さようなら」では面白くありません。だから、以前に書いたように、このブログで連載を続けたいと思います。
 今も、マンガやマンガ関連の本を読んでいるのです。研究は続いています。今は、自分が漫画家を目指していたころとは異なる、新鮮な気持ちでマンガというものに向き合っているし、さらに、昔親しんでいたものの価値を再発見したという喜びがあるから、やめられなくなっているのです。
 
 さて、連載をきっかけに好きになった作家に吉田秋生がいることは、再三言及していますが、今日ブックオフで『ラバーズキス』を見つけたので、買ってきました。それから、漆原友紀作品集『フィラメント』も買ってきました。この二人の作家と作品については、後日くわしくお話ししましょう。
 とにかく二人とも、絵がめちゃくちゃいい。ぼくは大好きです。ブックオフを出たあとドトールで昼食を食べながら、ほんの少し読んだのですが、この二人のマンガは、絵を見ているだけで心地いいのです。こういう物、こういう風景、こういう場面、こういう心理を、こんな風に表現するんだと、感心して、しばらく見とれています。
 日ごろ自分がイラストを描くときに、顔のほほの線さえ満足に引けないことに悔しい思いをすることがあります。それだけじゃない。背景に何気なさそうにある建物だって、空に浮かぶ雲だって、いざ描いてみると簡単なものなんて何一つないんです。マンガ家になろうとして描いていた子どもの頃からずっとそうだったなあ、と今さらながらに情けなく思います(と言うほどには、今さら落ち込んではいないけど)。そこへ行くと、この二人のマンガ家は、すべての線をなんとさりげなく、でもしっかりと描いていることか。単なる技術の問題ではない。ああ、プロだなあって思う。

 あ、線の美しさ、簡潔さでは、いしいひさいちの絵もいいですね。……と、話がどんどん広がっています。

 そんなことも次回はお話ししましょう。

『鋼の錬金術師』ギブアップ!2010年11月06日

 「信徒の友」2月号「漫画のススメ」の記事に「鋼の錬金術師」(荒川弘著)を予定していたのですが、ギブアップしました。つい先日、ぼくはこの漫画が好きになれないのだとわかってしまったのです。良い悪いではなく好みの問題で、ぼくは読み進むことができないのです。
 おかしな話、先週買った『Banana Fish』(吉田秋生著)全19巻の方をあとから読み始めて、先に読み終えてしまいました。こっちは面白かった。
 ふと、これは個人的な好みの問題であると同時に、世代の問題なのかな、とも考えました。

 著者は連載を終了するに当たって、新聞のインタビューで、この作品は生命や罪の問題を扱っていると、言ってました。そこにぼくは期待したのです。ぼくの興味のある分野ですから。
 ところが、語り方についていけないのです。具体的には、頻繁に差し挟まれるギャグ。しょっちゅう話の腰が折られる感じで、流れに乗れません。
 今の若い人たちの(というか、すでにぼくの世代でも始まっていたことですが)、どんな真剣なテーマも冗談めいて話さなければ聞いてもらえない、という不安感あるいは恐怖感に近いものが作品の底に流れているような気がします。
 似たような経験が、テレビを見ていたときにありました。SMAPの番組(ふだんめったに見ないのに、テレビ大好きの妻につられてたまたま見た)に槇原敬之が出てたのですが、トークの中で友情や愛の歌を歌っても、ものすごいテクで演奏していても、「〜みたいな?」というオチを付けるんですね。これって、たいしたことはないのさ、と先手を打っておかないと、みんな引くだろうから、最後はそんなふうにしなきゃ場が持たない、という基本姿勢があるようです。

 ハガレンに話を戻して、もうひとつ気になったこと。
 闘いのシーンが、エンタメの決まり事として設けているような感じで、必然性を感じませんでした。別に闘わなくてもいいんじゃね?と言いたくなる状況がしょっちゅうあったわけですね。登場人物も含めて、どこまでいっても(一応10巻までは読んだんですよ)世界が膨らんできませんでした。あくまで、ぼくにとっては。読み続けるのが苦痛になる漫画も珍しいなと思った次第です。
 DEATH NOTE は夢中になって一気に読めたのになあ。

 と、なんだかんだで、この漫画は自分には合わないと言うことが分かり、取り上げないことにしました。

コミックを見直してる 32010年08月09日

前回、まわりの人に漫画の話題を持ちかけると予想以上に多くの人が反応するということをお話ししました。みなさん漫画が好きなんだなと気づかされるわけです。

考えてみれば当然ですね。戦後世代は漫画で育ってきたのです。60代も十分に範囲内です。漫画は卒業するものではなくなりました。読者とともに成長し、変貌を遂げ、漫画の概念そのものが変わってきたというのが、むしろ真実です。


漫画評論、漫画学を精力的に進めている夏目房之介さんも現在60歳ですが、子どものころから漫画にどっぷりつかって育ってきた人のようです。その夏目さんが『漱石の孫』(新潮文庫)の中で、漱石の文学との関連から、文化的遠近法について興味深い指摘をしています。

↓以下、引用。


たしかに、海外のごく一部で漱石文学の翻訳も出てはいる。が、現在なら村上春樹やよしもとばななのほうがはるかに有名なはずだ。

もっと有名なのは、若い人を中心に受容される日本のアニメ、マンガ作品であり、この進出ぶりは、すごい。ここ百数十年の日本の欧米文化入超状態にたいし、このことは大きな意味をもっている。

が、日本人にとってアニメ、マンガが輸出されることは、さして意味のあることに思えず、漱石を知らないことのほうがショックだったりするのである。

僕にいわせれば、その感覚のほうがおかしいので、漱石より『ドラゴンボール』や『美少女戦士セーラームーン』『ポケモン』が知られていることの意味をこそ、今の日本は考えなければならないはずだ。それなくして「国際化」も「グローバライゼーション」もヘッタクレもなかろうとさえ思う(もっとも、さして実情を知らずにアニメやマンガの海外進出を誇らしげに喧伝する報道もどうかと思うが)。

↑引用、ここまで。


漱石の孫がこういう発言をすると言うのは刮目すべきことで、耳を傾ける価値がおおいにありますね。ぼくは漱石の文学も大好きですが、マンガも結局は故郷の一つなので、夏目房之介さんのような考え方の人がいてくれるというのはうれしいことです。


歌舞伎や浮世絵と言った、世界に影響を与え、世界に誇れる日本文化は、考えてみればすべてもともとはサブカルチャーだったのですね。日本人は、最初から王道である分野よりも、そういうサブカルチャーにこそユニークな発想や技術を発揮するのかもしれません。夏目漱石は賢くて生真面目な人でしたが、落語が大変好きでした。落語も大衆芸能、サブカルチャーです。そういうものへの愛が、漱石の目をリベラルなものにしていたように思います。

専門バカで、頭が固くて、妙なプライドに凝り固まった「お偉い」学者に限って、そういうことに気づかずにいる傾向があるようです。


最後に、もう一度、房之介さんの文章を引用して、この項を閉じましょう。


こうした逆転現象にもかかわらず、日本人はあいかわらず欧米=文化輸入先という枠組みでしかものを考えない。だから自国の文化的ブランドである漱石が欧米で無名であることに傷つくのである。(中略)いずれにせよ、こうした奇妙な文化的遠近法を問いなおすには、漱石の文学よりマンガやアニメの研究のほうが、現在でははるかに有効ではないかと僕は思う。

コミックを見直してる 22010年08月02日

 初回からコメントが予想外に盛り上がり、ぼくとしてはうれしい限りです。ありがとうございます。その内容は本文に持ってきていいくらいのものがあるので、さらに続けましょう。
 実は普段でも、まわりの人と漫画の話をちょっとでも始めると、みなさん、一気に話題が噴出するのです。子どもたちは言うに及ばず、僕と同世代でもですよ。あれがいい、これがいい、あの漫画のここはこうだ、あそこはどうだ……みんな漫画が好きなんだなあって、驚かされます。日本社会における漫画の浸透ぶりはものすごいと肌で感じます。
 ぼくは今やすっかり40年前の漫画少年に戻ってしまいました。
 でも、ぼくは性格が雑食型なので(「雑虫」というハンドルネームもそこから来ています。ちなみに、ゾウムシは雑食ではありません)、オタクのような突っ込んだ探求も話の進め方もとうていできません。自分なりのアプローチで作品を見て論じていくしかないので、マイペース・マイウェイでお話しをしていきます。そのつもりでおつきあいください。

 ところで、このブログでは今後、漫画家のお名前は敬称を省略させていただきます。
 さて、前回の続きから、絵のことに話題を持って行きたいと思います。
 漆原友紀の『蟲師』は内容もいいけれど、絵が好きなのです。カバーなどに見られる水彩を用いた表現がすばらしい。もちろん、中身はほとんどがモノクロですが、その表現もまたいい。ベタの使い方、斜線の使い方など秀逸です。しかも第1巻に比べて、最終の第10巻では線がかなり洗練されてきました。アクション漫画ではないから、全体に静かなように見えるのですが、時に意外に激しい動きもあって(主に自然界の動き)、それが決してジャンプ系の漫画のようなものにはならないんですね。ドカーン、グワシャッ、ではない。ああ、みごとだなあと思いました。
 
 手塚治虫は大友克洋の絵に嫉妬していたそうです。そうでしょうね。大友以降、彼の表現法は一つの指標になったのではないかと思われます。あの画力はちょっと他の追随を許さないものがあります。そのことについては、いずれ詳しく見てみたいと思います。見るたびに感心してしまいます。彼の作品を読むことはまさにその絵を楽しむことと言ってもいいでしょうね。でもぼくは、まるっきり描けもしないけれど、自分が志向する絵ではないなとずっと思ってきました。
 それは、『デスノート』の小畑健の絵についても同様です。よう描くわ、と舌を巻くくらいの緻密な絵だけれども、ああいう絵を描きたいとは思いません。ぼくの好みとはちょっと違う。
 しかし、蟲師の漆原友紀の絵については、こんな絵が描けたらいいなと思ってしまいます。また、最近、人から紹介されて立て続けに読んだ吉田秋生の絵についても同じ思いが湧いてきます。吉田の場合、年代によって絵柄がかなり変化していますが(一時期は大友の影響をかなり受けている)、先日読んだ「Lovers' Kiss」の絵は本当に良かった。こんなところでこんな描き方をするのか、と参考になったし、漫画としての表現を考え抜いているなと思いました。
 こうしてみると、僕の場合、惹かれる表現法を持っている人って、なぜか女性漫画家なんですよね。単なる偶然とも言えない理由があるに違いない。昔の水野英子とか池田理代子のような描き方は、全然好きになれないのだけれど。今後、そこを探っていきます。
 鋼の錬金術師の荒川弘も、聖☆おにいさんの中村光も女性です。昔の少女漫画とは全然違う絵柄ですね。本当に時代は変わった。それは間違いなく発展だと思います。

コミックを見直してる 12010年07月31日

 新たに、「漫画」というカテゴリーを設けました。この話題が今後増えるだろうから。
 今年の春から、雑誌『信徒の友』で毎月コミックを1作ずつ紹介する仕事をしていることは、以前にここでお話ししましたが、この仕事のおかげで、かなり意識的に漫画を読むようになったのです。そして、それがなかなか面白い。
 実際に仕事をしていると、漫画に関連したいろんなことを発見し、考えるようになります。連載記事はスペースが限られていて、作品紹介だけで手一杯なので、記事に掲載できない感想を、このブログでお話ししていきたいと思います。最初は、以前書いた記事と重複するところがありますが、ご了承ください。

 これまでに取り上げた作品は、『きりひと讃歌』(手塚治虫)『聖☆(セイント)おにいさん』(中村光)『DEATH NOTE』(大場つぐみ/原作、小畑健/漫画)『蟲師』(漆原友紀)『夕凪の町 桜の国』(こうの史代)『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)です。次号は『おんさのひびき』(伊図透)の予定。
 ここ数年はあまり漫画を読んでいなかったのですが、この仕事が入ったときに、昔の作品を紹介するだけじゃなく、比較的最近のものや、今連載中のものも取り上げなくてはと思い、探し始めました。なにしろ勉強不足ですから。
 掲載雑誌がキリスト教だからといって、内容はキリスト教的なものでなくてもいいのだけど(というか、最初は編集部の方でもキリスト教的な作品をという意図でしたが、はっきり言って日本にはいい意味でのキリスト教的な漫画は皆無だと言うことが、やり始めてすぐにわかりました。だからすぐに方針を変えて、漫画をキリスト教的視点からはどう読めるか、というスタンスで記事を書くことにしました。編集部さん、勝手な方針変更を受け入れてくださり、ありがとうございます)、何でも扱えばいいというものではなく、紹介する価値のあるものを選びたいと思いました。
 とはいえ、ぼくが読んで面白くない漫画は絶対に取り上げない。面白くないものを、お世辞でごまかして皆さんにお勧めするなんて、詐欺ですからね。なんてったって、タイトルが「漫画のススメ」なんですから、タイトルに恥じない文章にしたいと思ってます。それから、信徒以外の人が読んでもじゅうぶんに読める内容の文章にもしたいと努めています。これ、大事。自己満足や、内輪だけで受けてるのなんてかなり恥ずかしい。

 ここ数年、漫画に対してある拒否反応を起こしていたのですが、その理由はそのうちお話しします。その前に、今日は何よりも、日本のコミックスが成熟したマーケットであることを改めて感じている、そのことをお伝えしたいのです。真っ先に言いたいことは、すごい漫画は数え切れないくらいあるぞ、ということです。
 『蟲師』は数年前に、娘を通じて知った作品で、これを見たときはカルチャーショックを受けました。こんなに優れた漫画があるんだと、びっくりしたのです。娘に言わせれば、実はこのアニメ版がまたすごいらしいのですが、それもできれば取り上げたいところですね。
 とにかく、この漫画は、日本の土壌から生まれた良質の作品だと思ったのです。だから今回の仕事が入ったときに、この作品はぜひ紹介しなくてはと思いました。ネックはキリスト教とは全く無縁の内容だったことですが、でもまあ、そんなことを支障だと思っているようではプロではないでしょう。世の中の、どんな事象もキリスト教の視点から眺めることは可能なのですから(こじつけじゃなくてね)。
 一般向けに漫画を紹介するとなると、読み方が注意深くなりますから、真剣に読むのがしんどいことは確かですが、その分、深読みができて、細かいところに気づきます。技術的なことやテーマなど、あれこれ考えるようになり、これはいろんな収穫があります。
 長くなりました。話の途中ですが、この続きはまた今度。あ、突然でごめんね。