桃井和馬さんの本と講演2011年04月09日

  桃井和馬さんという写真家・ジャーナリストがいます。最近マスメディアによく登場しているので、ご存じの方も多いでしょう。この方とは同じ雑誌で仕事をしていますが、つい最近まで直接お話をしたことがありませんでした。
 1週間前に、桃井さんの近著『妻と最期の十日間』(集英社ノンフィクション)を読み終えました。4年前にご自身の奥さんを42歳という若さで天に送った、その最期の10日間を克明に記した本なのですが、ジャーナリストらしい冷徹な筆致で、奥さんや家族、ご自分のことを書いています。文体が抑制的であればあるほど、その奥にあるさまざまな思いが強く伝わってきて、ちょっと涙なしでは読めませんでした。
 
 その桃井さんの講演が、先月21日、阿佐ヶ谷教会で行われた日本キリスト教団西東京教区第12回全体研修会の中でありました。
 お昼休み、講演の始まる前に桃井さんと個人的に挨拶をして、少しお話をしました。彼は目力(めぢから)のある人で、常に世界に立ち向かっていく姿勢を視線から感じるのですが、話す口調はとても気さくで、人なつこさを感じさせます。
 
 さて、「生命・今私たちにできること」というのが研修会のテーマでしたが、その意味は、研修会の10日前に発生した東日本大震災によって大きく変わりました。
 桃井さんの講演は当初、ご自身がこれまでに訪れた世界各国の様子を写真で紹介しながら語る予定だったのを、急遽、震災の報告に変更。地震発生の4日後に現地に入って取材を続け、東京に戻ったのは研修会の前日でした。講演題は「日本のキリスト者が、今できること」
 被災地の悲惨さと同時に希望の光も感じさせる、多くのすばらしい写真とともに語られる報告は、最新情報を通り一遍に伝えるというものではなく、そこには映像で事柄の本質を捉える写真家の目があり、現状を正しく把握しようとするジャーナリストの感知力があり、広い視野から世界を眺めるキリスト者の深い洞察力があります。
 キリスト者として私たちに何ができるか? 被災地では多くのキリスト教団体がすでに支援活動を行っていますが、宗教の強要ではなく、被災者がそれぞれ大切にしているものに敬意を払いながら支援する、人の話を聞いてあげるといった、人に寄り添う姿勢に力点がおかれるべきであることが語られました。
 また、福島原発事故は深刻な問題を私たちに投げかけていますが、チェルノブイリの取材で、電気が人間の欲望の具現化であることを知った桃井さんは、原子力に寄りかからずにすむ生活に切り替えていく必要が、今こそあると訴えました。
 
 最後に、パタゴニアで撮影した1本の木の写真を見せてくれました。弓なりに大きく曲がった気です。この土地はしじゅう強風が吹いているのだそうです。しかし、いびつに変形し、傷つきながらも、風にただ抗うのでなく、また流されるのでもなく、立ち続けています。その姿に、これからの私たちの生き方が象徴されていることを示してくれました。
 ぼくは、こういう人がキリスト者の中にいてくれることをうれしく思います。
 ぜひ一度、桃井さんのウェブサイトをごらんください。 

アリエッティ2010年11月26日

 本の話題を続けます。
 アリエッティの原作を読み終えていました。『床下の小人たち』(メアリー・ノートン著)、原題は "The Borrowers" 。これは全部で5冊のシリーズ。僕が読んだのは最初の巻だけ。春から読み始め、休み休み読んで(ぼくはそんな読み方ばっかり。で、そのうち挫折するというケースが頻繁にある)、ひと月以上前にようやく読み終えたのでした。完走できただけでも、ああ、よかった。
 結末が面白い。ジブリのアニメとはかなり内容が違っているようですが(アニメは見ていないので確かなことは分かりません)、とにかく原作の方は、ウィットのある粋な謎かけで終わっているのです。これは小説という形でしか表せないもので、視覚化すると意味が通じないでしょう。
 この種の問題が生じる、似たような作品は結構あります。思いつくものでは、『鉄道員(ぽっぽや)』(浅田次郎著)。あれも本で読まないと良さが伝わらない作品です。映画もなかなかよかったのですが、中心部分にある仕掛けがヴィジュアルでは壊れてしまうのです。
 昔、『ブリキの太鼓』(ギュンター・グラス著)も同じような欠陥が出ていて、大江健三郎さんが、映画では小説的仕掛けが損なわれていると指摘していました。主人公が男の子なのですが、それは、自分を少年と思い込んでいる男の話であって、実際に少年の姿で出てきてしまってはいけないというのです。

 話をアリエッティに戻しましょう。このお話は「異質なものとの共存」がテーマの一つと言えます。主人公たち小人の家族は、人家の床下にすんでいて、そこから小物を持ち込んで、自分たちの家具として利用し、暮らしています。そして、人間に姿を見られたら生きていけないと思っているから、自分たちの小さな世界の中に閉じこもって暮らしているのです。自分たちにとってのそこそこの平和は保たれているのですが、広い世界を知らない。それは私たち日本人の大多数の状況にも似ています。いやいや、日本以上に似た状況の国がありますね。
 しかし、彼らは人間の少年に見つかり、平穏な世界が破られます。アリエッティはそこで、これまでの小さな世界から飛び出していくことになるのです。
 人間の少年が、アリエッティたちのやっていることに対して「盗んでいる」と言うと、アリエッティは「借りてるのよ」と答えます。自分たちは「借り人(Borrowers)」であって、「パンがバターのためにあるように、人間がわたしたちのために存在するの」と主張します。解釈の違い。この辺のやりとりが面白い。
 異質なもの、他者との共存は私たちの永遠の課題です。口で言うのは易しいけど、ほんと、たいへん。身近なところから世界の果てに至るまで、人類は昔も今もこの問題で悩み苦しんでいるわけです。この物語のテーマはそれだけじゃないけれど、そのことをやさしく考えさせてくれるのです。

『チャイルド44』2010年11月25日

 『チャイルド44』(トム・ロブ・スミス著、田口俊樹訳、新潮文庫)を読みました。高田馬場の古本市で見つけたのです。たまにゃエンタメ読まなくちゃね。「このミステリーがすごい」2009年版海外編で、第1位。NHK「ブックレビュー」でも以前、誰かが紹介していました。
 1979年生まれの著者が29歳のときに書き上げたデビュー作。まあ、よくこんなストーリーが作れるものだ。

 スターリンからフルシチョフに移る時代のソ連を舞台にした連続殺人事件のお話なのですが、この時代のソ連はこんなに怖いのかと思いました。作者はたくさんの文献を読んでこの物語を書いたそうで、実話を元にしています(実際の事件は80年代に起きた)。
 「共産主義は理想的な社会なのだから犯罪などはあるはずがない」という建前がすべての恐怖の元凶であり、それがこの物語のミソ。その建前を維持するためにどれだけの人間が犠牲になっていくか。人間性を正しく理解しない社会構造が、この作品の恐怖をいっそう高めています。
 世界27か国で翻訳され、さらにリドリー・スコット監督による映画化も決まっているとのこと。読んでいて、確かに映画にできそうな内容ではありました。最近の作家は、最初から映画化を見越した作り方をしてますからね。
 しかし、内容がソ連共産党の暗部を描いているから、ロシアでは発禁になってるそうです。おやおや、なんと時代錯誤な。描かれているのは現政権じゃないのにね。だれでも自分たちの歴史を否定的に扱われるのはうれしくないだろうけど、国を挙げてこんなことするってのは「私たちの実態は変わってませんよ」という意思表示にも見えてしまいます。ま、お隣にもそんな国はあるから、驚くこともありませんけど。

 ミステリーだから、当然ネタばらしはしないでおきます。ただ、ラスト、犯人が連続殺人の動機を語るのですが、さすがにそれはちょっとリアリティーなさすぎと思いました。とってつけたような理由なんですよ。あと、ミステリーにありがちな、わざとらしい図式的プロットも、うーん、と思ってしまうのですが、それを言っていてはミステリーは読めませんね。

 でも、エンタテインメントしては一級です(訳者の解説はほめすぎだけど)。

『悪魔のささやき』2010年11月20日

 10日ほど前に、加賀乙彦さんの『悪魔のささやき』(集英社新書)を読み終えました。これは、先日紹介した『不幸の国の幸福論』のあとがきで言及されていた本で、位置づけとしては「不幸の国〜』が『悪魔の〜』の内容をさらにわかりやすく解説したものだということです。ぜひ読みたいと思い、ブックオフで買ってきました。現代日本人の精神を分析しながら、ではどう生きていけばいいのか、ということを語っています。
 内容としては、両方をセットで読むのがいいでしょうが、個人的にはこちらの方がさらに面白く読めました。日本の近現代史を振り返りながら、精神科医である加賀さんの豊富な診療体験をもとに人間性が分析されているだけに、説得力があるのです。

 犯罪者がよく使う言葉に「あのとき悪魔がささやいた」というのがあります。私たちもよく聞きますよね。日常会話の中で冗談で言うこともある。しかしその言葉は単なる口実ではなく、実際にそうとしか言いようがない状態になることがあるというのです。「魔が差した」という言葉も使われるけれど、こちらがほんの短い時間の精神状態をさすのに対し、「悪魔のささやき」は一定の期間続くものだそうです。
 そして、これは実は他人事ではなく、だれでも経験する可能性があるのです。個人的な犯罪だけでなく、集団で破滅的な行動に走ることもある。特に日本人はそういう風になりやすい。それは、自分で考えることをせずに、まわりの空気に流されて動いてしまうことが多いからだと、著者は言います。その具体例が第二次世界大戦。
 では戦争に負けて日本人は変わったかというと、まったく変わっていなくて、同じことを繰り返している。1960年代の学生運動もそうだし、近年で言えばオウム真理教事件がそうです。加賀さんが麻原彰晃に面会した様子も報告されています。
 こういう状況を変えるためには、一人一人が自分の頭で考える「本物の知」を鍛える必要がある、と著者は主張します。そのテーマが続編『不幸の国の幸福論』につながるのですね。

 この本では個人的な犯罪と戦争のような集団的な犯罪との違いまでは述べられていません。そのあたり、もう少し詳しく調べてみたい気がします。
 また、まわりに流されやすいのは決して日本人だけとは、ぼくは思いません。最近、お隣の国で頻発しているデモのニュースなどを見ていると、人が思考停止して周りの空気に流されて動くことは、どの国にもあるのだと痛感します。でもだからといって、お隣と比較して「あいつらよりましだ」と言ってても、何ひとつよくなりません。割合としては、欧米人に比べるとアジア人はそういう傾向が強いのではないかと、ぼくは個人的に思っています。アジアの文化は個を育てることをしてきませんでしたから。今もあまりしていないでしょう。
 ただ、日本人も、ほんとうに根っこの部分では変わっていないなというのは、ぼくのこれまでの体験からだけでも十分に言えることで、自分の世代を見ていても若い人たちを見ていても、そう感じます。近頃の世相を見ていて、うんざりするほどそう思います。
 悪魔にささやかれたときに(わたしはそんなことはない、と自信を持っている人が一番危ないそうで)、対抗できる力を自分の中に持つこと。これが大切なのですね。
 ここでまたぼくは言語の問題に入っていきたいのだけど、それはまた今度。

ゲーテの言葉 名言集2010年10月30日

 古本でゲーテ関連本を時々買います。主に文庫ですが。ゲーテの作品をドイツ語で読めたらどんなにいいだろうと思うのですが、なんだか難しそうで。イタリア語とかスペイン語だったらフランス語に近いから、まだ親しみやすいのですが(習ってはいませんよ)。
 いま電車の中で読んでいるのが『ゲーテさん、こんばんは』(池内紀著、集英社文庫、2005)。エッセイなので軽く読めて、面白い。この人って、まあ、もちろん偉大な人なのだけど、モノや人への好奇心がハンパじゃありませんね。各地に旅行しては石を集めたり、あらゆることをメモしまくったり(これは井上ひさしさんに通じる)していたようです。
 もう1冊、同時に買ったのが『ゲーテ格言集』(高橋健二編訳、新潮文庫)。こちらは気ままに開いて、気ままに読む。トイレにおいておくといいですね。

 ぼくは、生きていくための大きな力の一つが言葉だと思っているから、名言集などをよく買い集めて、折に触れ開いています。名言集などというと、なにやらもったいぶった感じがして、教訓めいたものばかりのように受け取られがちですが、笑えるものも結構あるし、とにかく読んでいて面白いことは確かです。
 ちょっと変わり種でオススメが、『ポケットに名言を』(寺山修司著、角川文庫)。寺山独自の視点で集めた言葉、それと自作の短歌や戯曲のセリフなども。作家の島本理生さんが高校生の頃から愛読してたそうです。
 欧米にはしっかしした引用辞典があります。OXford はこの点ではさすがにいいものを出しているようです。小説でよく巻頭に誰かの言葉を引用してるのを見かけますが、ああいうもののネタ本ですね。

 話は脱線しますが、スピーチや訓辞のネタ本を本屋で見かけます。でも、ああいうのを使っても、ただの受け売りだとすぐバレるし、かえって話者の精神の貧しさを露呈してしまうこともあったりして、要注意ですね。

 いい言葉はなるべく暗記するようにもしています。ゲーテの言葉は暗記に値するものが多い。数え切れないくらいあるけれど、その中の一つが、次の言葉。たまたまこれは英語の名言集だったので、英語も載せておきます。ドイツ語ではどう言うんだろう?

 自由と存在は、日々それを新たに勝ち取る者のみが、受けるに値する。
 He only earns his freedom and existence who daily conqueres them anew.

 上述の「格言集」によれば、この言葉は「ファウスト」第二部かららしい。ところが、格言集の訳は以下のとおり。
 凡そ生活でも自由でも、日々にこれをかち得て、初めてこれを享有する資格がある。

 ずいぶん印象が違いますよね。まるっきり別物みたい。だから訳というのは難しいのです。

 最初にこの言葉に出会ったのは小学生の頃だったけど(もちろん日本語のほうしかわからなかった)、これが真理だと悟るようになったのは随分歳をとってからですね。社会に出てあれこれ体験を重ねると、つくづく、この言葉ってほんとだな、と思うんです。
 こういう考え方って、日本人にはきわめて少ないんじゃないでしょうかね。長いものに巻かれたり、大勢に流されて生きることの方が多いから。

 もうひとつ、ゲーテの言葉ではありませんが、僕の好きなドイツのことわざを。
これだけはドイツ語で覚えましたよ。ドイツ語をやっている人に発音も確認して。

 Humor ist, wenn man trotzdem lacht.
 ユーモアとは、「にもかかわらず」笑うことである。

 いいでしょ。

しなやかに生きる2010年10月10日

 先日ちょっとお話しした『不幸な国の幸福論』(加賀乙彦著、集英社新書)を読み終えました。前にも書いたように、内容は今までにぼくが別のところで読んだり聞いたりしたことと重なっている部分が多く、とりたてて新しく学習したというところはありませんでしたが、自分が考えていることのおさらいの意味もあって、とても参考になりました。
 第2章『「不幸増幅装置」ニッポンをつくったもの』では、詳細なデータをあげながら、戦後の日本がどんな風にゆがんだ道を歩んできたかが解説されていて、読み応えがありました。読めば読むほど政治家や官僚やいろんなものに腹が立ってくる。
 しかし——僕の言葉で表現しますが——、著者は「まわりが悪い、社会が悪い」と不満を言うだけでは決して解決しないし、そういう態度はますます不幸感を募らせるだけだと言うのです。ではどう対処するのか。現実には(特に今の時代)決してものごとを単純に割り切ってやっていくことなどできません。
 私たちはそんなタフな状況の中でデリケートなバランスを保ちつつ、現実に押しつぶされずに生きていく必要があるのです。加賀さんはそのキーワードを「しなやかさ」(フランス語のsoupleスープルという単語をわざわざ紹介して)と言います。曲げられても折れない若竹のようなイメージです。英語だとflexibilityでしょうかね。
 この本の中には出てこなかったけれど、「打たれ強さ」というのもキーワードになりそうな気がします。
 あと、第4章『幸せに生きるための「老い」と「死」』も、老いることの意味や、どんな心構えで老いていくのがいいのかを改めて知ることができて、良かったです。加賀さんは80歳を過ぎた今では、原稿用紙を1日2枚書くのがやっとだけれど、今執筆中の小説があって、これが未完に終わってもかまわない、と言ってます。真実味のある言葉でした。

 著者は、今の日本が希望を持ちにくい社会だと言うことをはっきり言って、その中でなお希望を持ち続けることの大切さ・意味を説いています。
 日々の暮らしで、いいこと・楽しいこと・うれしいことも多いけれど、おかしなこと・理不尽なこと・心が重くなること・やっかいなことも次々と出てきて、息苦しさを覚えてしまうことがよくあります。それらの問題はいわゆる自己責任や自分の努力だけで解決できるものではない、やっぱり社会全体がどこかおかしいと思うわけですよ。そんな中で、どうやって正気が保てるか、また自分や周りを少しでも良くできるのか。
 変に落ち込むことなく、しかしただ逃げ回るのでもなく、したたかに生きて行かなきゃと、つくづく思いますね。

文体のこと 22010年10月03日

 もう2週間以上もブログを更新できませんでした。昨日の午後に仕事はいったん小休止しましたが、丸1日何もしないでいられるという状態ではありません。今日は今日で、教会のことで一日しんどい時間を送っていました(そのことはいつかお話しした方が良さそうです)。

 本を読む時間がとれずにいるのがつらい。きのう仕事が一段落したところで、気分転換の意味もあって、ブックオフへ行って新書を2冊買ってきました。『「ふるさと」の発想』(西川一誠著、岩波新書)『不幸な国の幸福論』(加賀乙彦著、集英社新書)。
 「ふるさと〜」は僕の出身地、福井県の知事が書いているのです。ぼくが地元を離れてから30年以上、今故郷ではどんなことが行われているのか、地方自治はどうなっているのか、そんなことを知りたくて買いました。ふるさと福井県のことはやっぱり気になりますし。
 地方自治体の知事というと、今は東国原さんや橋下さんあたりが注目度では突出しているようですが、そういうマスコミの脚光を浴びている人たちばかりじゃなくて、地道に(福井県にはこの言葉が似合う)地方自治の活動をしている人たちのことも私たちは知らなくては、と思います。

 2冊いっぺんに買いましたが、読み始めたのは、もう1冊の方。加賀乙彦さんの小説は読んだことがありません。『宣告』がずっと前から気になっていて、読んでみたいとは思っているのです。カトリックで精神科医であるところに興味を持っています。

 さて、前回の(2週間前の)続きになりますが、加賀さんのこの本も「ですます調」が基本ですが、三浦雅士さんのあの本に比べて、こちらは自然な流れの口調なので非常に読みやすい。そのことを強調しておきたいと思います。こういうあたりまえのことを言うのはちょっとばかばかしい気がするのですが、まずそのことにぼくはほっとしたのです。こんなことでイライラしたり安心したりなんて、生まれて初めてですよ。
 読み始めたばかりなので、内容についてまだコメントする段階ではありませんが、精神医学や心理学などについては、今までに見聞きしたり読んできたことと重複することがたくさんあり、これまでのところ、まだ目新しい見解は出てきませんが、それらをもう一度確認し整理できるので勉強になります。
 ただ、ぼくはここ数年、日本人の精神構造(特に人目を気にする国民性、個が育たないこと)の大きな要因として日本語の持つ言語構造があげられると思うようになっているのですが、そこの指摘がないことをちょっと物足りなく感じています。目次を見ても、この先そのテーマが取り上げられることはなさそうですね。
 でもまあ、とにかく、文体が自然なだけで、まずはうれしく思っています。

文体のこと2010年09月17日

 図書館で借りていた本『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(澤地久枝さんによる中村哲さんのインタビュー、岩波書店)を、まだ3分の1しか読んでいないのに、明日返さなくてはいけなくなりました。読む時間がほとんどとれなかったのです。面白い本なのに、残念。またいつか借りよう。
 
 さて、きょうの話題です。
 外出時に電車の中で読む本は、たいてい文庫か新書。最近読んでいたのが、『漱石—母に愛されなかった子』(三浦雅士、岩波書店)。数ヶ月前に買ったもので、やっと読み始めました。ところが、読み始めてしばらくしてつまずきました。
 文体です。「ですます」調と「である」調のイレギュラーな混合が、ぼくは気になって気になってしょうがない。この人の本は初めて読むのだけど、いつもこんな調子なんだろうか。
 例を挙げましょう。冒頭の文章。

  漱石は母に愛されなかった子だった。少なくとも漱石はそう思っていた。そのことはたとえば 『坊っちゃん』を読めばすぐに分かります。

 これだけだとそれほど変な感じはしません。ぼくもよくやっている(現に今も)。だから、多少違和感を抱きながらも、最初は、まあこんなもんかと思って読んでいったのです。ところが、どうもこの人の文体の規則性がいつまでたってもつかめず、イライラがつのってきました。
「〜だ」「〜である」としばらく続いたかと思うと、いきなり予想外のところで「〜なのです」とくる。そもそもどちらかに基盤を置くと言うことをしていません。のべつまくなしにこの調子。
 どう考えても書き言葉としか思えない文と、語りかけるような話し言葉がめまぐるしく交代するから、読んでいてぼくはどういう次元にいるのか分からなくなってしまうのです。この人の語り方だと、ある時は2次元に、あるときは3次元にいる。人格がたえず変質している印象を受けます。
 講演集であれば、読者はそういうものとして受け止めて読んでいます。というか今回、こんな本に接して初めて、僕は自分が普段そういうふうに読んでいるのだと言うことが分かりました。で、いつものようなそういう心構えでこの本を読んでいると、裏切られるのです。
 だから、リアリティーのある人間の言葉として届いてこなくて、あなたのパーソナリティーはどうなってるの? そう聞きたくなってしまう(発言がだんだん過激になってくるなあ)
 やがて僕の忍耐も限界に達しました。あ、だめだ、こりゃ。
  
 ぼくも「ですます」調と「である」調を混ぜて使っています。基本を「ですます」調にして、全体のリズムの中で、独り言(というのは正確ではないけど)に近い内容の時に「である」調を使います。それは別に珍しいことじゃなく、多くの人がやってることです。
 ぼくは自分の方が優れていると言ってるのではありません。問題は、この人の場合、ぼくとはまったく違う基準でやっているらしいということなのです。ぼくにはその基準がつかめなくて、それが苦痛なのです。
 それでも、「いやいや、内容は面白いのだから、文体はなるべく気にしないように、文字面はとばして読もう」と自分に言い聞かせて読み進めましたが、言い聞かせれば言い聞かせるほど文体が気になって、内容よりもそっちの方しか頭に残らなくなりました。
 で、断念。もう読まないことにしました。せっかくの内容がへんな文体のために損してるじゃないかという思いを抱いて。
 しかし同時に、こうも思うのです、はたしてリズム感のない(と言い切っちゃいます)文体の本が「内容は面白い」と言えるのだろうか、と。