聖句カードギャラリー第18回 ― 2012年11月23日
聖句カードギャラリー 第17回 ― 2012年07月14日
今回はちょっと失敗談を。一度描いた絵に大きな誤りがあって修正したのです。
創世記で老夫婦のアブラハムとサラに神の使いが現れ、来年、男の子が与えられるだろう、と告げるシーンなのですが、一昨年の絵では、入り口を普通私たちが住んでいるようなイメージで描いていました(上の絵)。ところが、今回これをfacebook に載せようとしたときに聖書をもう一度読み直したら、彼らの住んでいるところは普段思い描くような家ではなく、天幕、つまりテントだったということがわかったのです。これは大失敗!
藤沢教会の方々には申し訳ないことをしました。というわけで、今回描き直したのが下の絵です。
サラは、御使いの言葉を聞いて笑った、と聖書に書いてあります。その笑いをどう表現するか。ここに描いたのは、私たちが教会で(いや、ここそこの街角で)よく見かける女性たちの笑顔です。こんな雰囲気の年輩の女性が大勢いますね。その人たちもきっと、神さまから信じられないことを告げられたときに、こんなふうに、ふと恥ずかしそうに微笑むのかもしれません。「まさか、そんな」と、そっとつぶやいて。
聖句カードギャラリー 第16回 ― 2012年06月29日
聖句カードギャラリー 第15回 ― 2012年06月22日
聖句カードギャラリー 第14回 ― 2012年06月11日
新約聖書にある「エフェソ人への手紙」は絵にしづらいですね。書かれていることが抽象的な神学ですから。ここでは、子どもが古い服を脱ぎ捨てて、入学式のときのようなきちんとした服を着て、生き生きした表情になっている姿を表しました。
今までもたびたび言ってきたかもしれませんが、聖書に関する絵を描くとき、気をつけていることがあります。神学的に明らかに間違ったものになってはいけませんが、それを気にするあまり絵が説明的になりすぎると絵としてつまらなくなるということです。そうならないよう、バランスを保つよう心がけています。
特に子ども向けの場合はそれが肝心です。大人から窮屈な学問的指摘が来るとしても、この絵を見るのはあくまでも子どもたちであるということを忘れずにいたいと思っています。
ぼくがこの絵をお引き受けしている藤沢教会の方々はとても寛容で、今まで一度も注文をつけられたことがありません。自由にやらせていただいています。でも逆に、だからこそいい加減なものは作らないように注意を払っているのです。
聖句カードギャラリー再開 第13回 ― 2012年05月29日

聖句カードギャラリーを再開します。本当に久しぶりです。Facebook でもつい先日始めました。掲載作品は同じですが、解説が少し異なります。解説が異なることに深い意味はありません。ブログとFacebook での気分の違いみたいなもの。こちらの方がややリラックスして話ができます。ブログとフェイスブックの違いをたとえて言うと、ブログは建物の中にテナントとして店を構えているようであり、フェイスブックは広場で広げて品物を売るフリーマーケットのようです。絶えず周りの光景や音が目や耳に入ってくる。
藤沢教会のために聖句カードを描き始めてからもう3年目に入りました。今回、作品掲載にあたって過去の作品をずっと見てみたら、描き方が少しずつ変わってきたことが改めてわかりました。自分で意識して変えてきたものもありますが、知らないうちに方向が定まってきたものもあります。
以前にここで紹介していたときは、作ったものを順番にすべて掲載していましたが、今度は自分で気に入ったものだけを選び、順不同で掲載していきます。カードを作るときは全部ベストを尽くしていますが、引用聖句よっては、絵にしにくくて、あとで見るとどうもしっくりこないな、というものもあるのです。
また絵にする難しさとは別に、上にも書いたように、この2年余りで絵柄が変わってきたこともあって(見る立場からは「どう違うの?」と言われるかもしれませんが)、以前のものは載せなくてもいいや、という思いがあります。
藤沢教会以外に教団出版局の「教師の友」のために描いたものもいくつかあるので、その中からも取り上げます(絵柄はまったく同じ)。結果、これまで制作したカードの6割、80点くらいになりそう。
さて、再開第1弾は創世記。ご存じアダムとエバ、そして神様のお話です。禁断の実を食べてしまったアダムとエバは自分たちが裸であることに気づき、木陰に身を隠そうとします。神様がアダムに呼びかける場面。
ところで、神様はどうしてアダムの方に呼びかけたのでしょう。責任はおまえがとれ、と言いたかったのかな。エバに誘われたから、という言い訳を神様は予測していたのかもしれません。
この絵で、エバが金髪になっているのは白人崇拝ではありません。全体の色調を整えるために、やや明るめの色を使いたかっただけです
。
聖句カードギャラリー 第12回 ― 2011年05月04日
久々の聖句カードです。ほぼ1年遅れになってしまいました。絵の右上の日付を見ていただくとお分かりになるでしょう。去年の6月20日分。陸上や水泳の周回遅れみたい。
テキストは使徒言行録から。教会に集まっていた弟子たち(イエスと行動を共にした最初の12弟子ではない)に告げられた聖霊の言葉です。パウロとバルナバという人に、外国への宣教の任命が与えられます。
この場面は、パウロたちを送り出す前に、弟子たちが二人に手を置いて祈る儀式を描いています。按手礼といって、今でも牧師の資格が与えられるときに行われます。
僕のカードでも漫画やアニメと同じく、一応キャラ設定がしてありまして、左奥の青い服の人物がパウロです。手前がバルナバですが、あまり描く機会はなさそう。
パウロは有名ですね。クリスチャンじゃなくても知っている人は多い。この人がいなかったら、キリスト教はこれほど広まることも、これほど存続することもなかったろうと言われています。彼は、最初から異邦人(ユダヤ人以外の人たち)への伝道を自分の生涯の使命と考えて活動しました。
キリスト教の教会が危機に陥ったとき、キリスト者たちは必ずパウロの言葉に帰っていきます。もちろんその先にイエスと神の言葉があるのだけど、信徒としてどう生きていくか、あるいは教会がどうあるべきかを考えるとき、パウロの言葉は絶えず新しい問題提起と指針を与えてくれるのです。
パウロの文章は神学的に難しい部分もかなり多くて、ぼくは若い頃、敬遠していましたが、40代前半にちょっとした人生の挫折を味わったとき、パウロの言葉が心にしみて、励ましと慰めを与えられた覚えがあります。
教会や牧師にもよりますが、聖書の言葉をただただありがたいものとしてあがめまつったり、権威主義的にややこしい神学を振り回して仰々しく語る例をしばしば見受けます。そういうことをやってはいけません。
パウロは、自分たちとかけ離れた秀才で偉大な人物というのではなく、私たちと同じように人間として挫折や苦しみに出会った人物です(それは「人」となったイエスもそうなのだけど)。そしてひたすら神の恵みのみを頼りとして生き抜きました。そんなパウロの肉声として捉えたときに、彼の言葉が力となって私たちの心に届くのです。
天使ガブリヨリ ― 2011年04月23日
大震災と原発のことで、神経がちょっと疲れてきました。先週は風邪も引いたし。
そこで、たまにはこんな息抜き、いかがですか? って、ぼくだけかな、疲れてるの。
「受胎告知」は皆さんご存じですよね。あれのパロディーです。オヤジギャグからの発想で、最初は単なる言葉のメモでした。次にちょっと落書きみたいに鉛筆で軽くスケッチして、そのままにしておきました。こういうアホっぽいのがぼくは好きで、気晴らしにそのうち軽く描いてみようと思っていたのです。そう思いながらさらに数週間。
で、地震発生以来、なんだかちょっと生真面目なというかやや深刻な気分で過ごしてるなあ、と息が詰まりそうになったので、じゃあこの辺でと思い立って、今日描きました。
でも、それでも最初はサインペンで黒1色のつもりだったんです。軽く描いてそれで終わろうと。ところが描いているうちにだんだん懲り始めて、とうとうこんなふうになりました。
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