聖句カードギャラリー 第12回 ― 2011年05月04日
久々の聖句カードです。ほぼ1年遅れになってしまいました。絵の右上の日付を見ていただくとお分かりになるでしょう。去年の6月20日分。陸上や水泳の周回遅れみたい。
テキストは使徒言行録から。教会に集まっていた弟子たち(イエスと行動を共にした最初の12弟子ではない)に告げられた聖霊の言葉です。パウロとバルナバという人に、外国への宣教の任命が与えられます。
この場面は、パウロたちを送り出す前に、弟子たちが二人に手を置いて祈る儀式を描いています。按手礼といって、今でも牧師の資格が与えられるときに行われます。
僕のカードでも漫画やアニメと同じく、一応キャラ設定がしてありまして、左奥の青い服の人物がパウロです。手前がバルナバですが、あまり描く機会はなさそう。
パウロは有名ですね。クリスチャンじゃなくても知っている人は多い。この人がいなかったら、キリスト教はこれほど広まることも、これほど存続することもなかったろうと言われています。彼は、最初から異邦人(ユダヤ人以外の人たち)への伝道を自分の生涯の使命と考えて活動しました。
キリスト教の教会が危機に陥ったとき、キリスト者たちは必ずパウロの言葉に帰っていきます。もちろんその先にイエスと神の言葉があるのだけど、信徒としてどう生きていくか、あるいは教会がどうあるべきかを考えるとき、パウロの言葉は絶えず新しい問題提起と指針を与えてくれるのです。
パウロの文章は神学的に難しい部分もかなり多くて、ぼくは若い頃、敬遠していましたが、40代前半にちょっとした人生の挫折を味わったとき、パウロの言葉が心にしみて、励ましと慰めを与えられた覚えがあります。
教会や牧師にもよりますが、聖書の言葉をただただありがたいものとしてあがめまつったり、権威主義的にややこしい神学を振り回して仰々しく語る例をしばしば見受けます。そういうことをやってはいけません。
パウロは、自分たちとかけ離れた秀才で偉大な人物というのではなく、私たちと同じように人間として挫折や苦しみに出会った人物です(それは「人」となったイエスもそうなのだけど)。そしてひたすら神の恵みのみを頼りとして生き抜きました。そんなパウロの肉声として捉えたときに、彼の言葉が力となって私たちの心に届くのです。
天使ガブリヨリ ― 2011年04月23日
大震災と原発のことで、神経がちょっと疲れてきました。先週は風邪も引いたし。
そこで、たまにはこんな息抜き、いかがですか? って、ぼくだけかな、疲れてるの。
「受胎告知」は皆さんご存じですよね。あれのパロディーです。オヤジギャグからの発想で、最初は単なる言葉のメモでした。次にちょっと落書きみたいに鉛筆で軽くスケッチして、そのままにしておきました。こういうアホっぽいのがぼくは好きで、気晴らしにそのうち軽く描いてみようと思っていたのです。そう思いながらさらに数週間。
で、地震発生以来、なんだかちょっと生真面目なというかやや深刻な気分で過ごしてるなあ、と息が詰まりそうになったので、じゃあこの辺でと思い立って、今日描きました。
でも、それでも最初はサインペンで黒1色のつもりだったんです。軽く描いてそれで終わろうと。ところが描いているうちにだんだん懲り始めて、とうとうこんなふうになりました。
聖句カードギャラリー 第11回 ― 2010年11月27日
まず、藤沢教会へ21日に行ってきたことのご報告。この教会の聖句カードを今年の4月から担当させていただいているので、一度お伺いしたいと思っていたのです。ようやく実現しました。教会を訪れるのは初めてでしたが、牧師夫人と昔からの知り合いだったこともあり、また会員の中にも知り合いのご夫妻がいらっしゃるので、気持ちとしては自然に入っていけました。
カードは教会学校のためのお仕事なので(と言っても、大人の礼拝でも配ってくださっている)、ぜひCSから来てくださいと言われていました。子どもたちの様子を見ることは大切だから、ぜひそうしようということで、朝6:45に家を出て、ほぼ2時間かけて到着しました。
大きな教会です。礼拝出席がCSだけでも70人近く、大人の方は110名。僕の所属する野方町教会より大きい。CS専用の週報もあって、毎週活発に活動をしていることが伺えました。
礼拝後は昼食をいっしょにいただきながら歓談することができました。そのあと皆さんと記念撮影をして(左端がぼく)、おいとまをしました。みなさんに温かく迎えていただき、感謝の思いをもって帰途につきました。
自分の描いた絵がどんな人たちに届いているのか、実際に会って知ることができたのは嬉しいことです。顔の見える仕事、手作りの仕事、ですね。
さて、聖句カードはちゃんと制作しているのに(いつも締切ギリギリだけど)、ブログのギャラリーは滞っています。今日は久々に登場。えっ、まだ10回目? カードは35回分すでに描き終えてるって言うのに、ヤバイんじゃね?
……と思っていたら、実は11回目でした。しかも、前回と同じ絵を掲載! koukoutakeさんのご指摘でやっとわかったという間抜けぶりです。あーあ、情けない。
なので、下の文章は全部新しいものと差し替えました(29日)。
前回に引き続き、弟子たちが伝道している場面です。今回登場するのは、キリスト教を語るときに欠かすことのできない人物、パウロ(右上)。彼が仲間と祈りの場所に行く途中、占いの霊にとりつかれている女奴隷がついてきて「この人たちはいと高き神のしもべで、救いの道を宣べ伝えているんだよ」(口調はアレンジしました)と叫びます。何日も何日もうるさくつきまとう。昔も今も、ありそうなことですね。さすがにうんざりしたパウロは霊に向かって(女に向かってではなく、「霊に向かって」というところが面白い)「キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言いました。絵は、二人がそれぞれのセリフを言ったところ。
女奴隷を画面の左上に配し、その言葉(引用聖句)にぴったり添うようにしました。そして、パウロの手を女の手の下に置くことで、二人の発言の順序が自然に感じられるようにしました。
絵を描くときは当然ベストを尽くしますが、毎回毎回、必ずしも満足のいくものができあがるわけではなく、もっと何かできたんじゃないかと思うことがしょっちゅうです。その中で、この絵は割に気に入っています。どういうところかというと、女の顔と全体の構図。この場面そのものがドラマチックだから、もしかすると自然に映像が浮かんできたのかもしれません。
ところで、聖書を読んでいて、ときどき不満なのは、訳の言葉遣いにリアリティーがあまりないことです。ぜーんぶ丁寧語でしゃべっている。なんでもっとドラマのように生き生きとした言葉遣いにしないんだろうなと、昔からずっと思っているのです。
聖句カードギャラリー 第10回 ― 2010年08月18日
引用聖句は、使徒言行録から。「使徒言行録」は、イエスの誕生から復活までを扱うルカ福音書の続編で、イエス復活のあと、弟子たちによってキリスト教が世界に広まっていく過程が語られています。
この聖句は、キリストの弟子たちが聖霊の力を受けて伝道をする様子を表しています。聖書の考え方では、イエスが十字架にかかり復活し昇天したあと、弟子たちを導いているのは「聖霊」ということになります。
神の言葉を人に伝えるのは難しいことです。路傍伝道という、人通りの多いところで聖書の話をすることは昔はよくやっていたのだそうです。ぼくは見たことがありません。政治家で駅前に立って話をしている人はときどきいますね。選挙じゃなくてもやっている人がいるけど、偉い。
意外によく見かけるのが、繁華街で、長い棒の先にスピーカーをつけて、録音された演説を流している、わけのわからん団体です。キリストのことを語ってはいるけれど、あれは恥ずかしい。若いときから見てきましたが、理性でも感情でも納得できないものがありました。
で、ある時わかったんです。どこがおかしいか。彼らには、本当の意味で、人に言葉を伝えようという意思がまったくないのです。ただ空中に消えていくだけの言葉。パチンコ店の音楽と同質になってしまう言葉。
聖書の言葉も、使い方ひとつで生命がなくなります。あれはやめてほしいですね。
イエスの物語や使徒言行録は、演劇的場面が多いので比較的絵にしやすい。これもその一つ。パウロの手紙のような神学論だと、毎回どうやって視覚化するか、苦労してます。でも年間スケジュール表を見ると、視覚化しにくい御言葉が半分以上あります。さーて、どうするか。毎回大きなチャレンジです。
聖句カードギャラリー 第9回 ― 2010年08月05日
引用聖句は、パウロによる「ローマの信徒への手紙」8章から。
パウロの手紙は何回読んでも難解で(あ、オヤジギャグ、ごめんなさい)、旧約聖書をひもときながら、キリストの救いの意味を解説している文章は、特に日本人にはピンと来ない部分も多く、敬遠される原因にもなっていると思います。
でも仏教だって本当はなかなか難解で、たとえば「唯識三年、俱舎八年(ゆいしきさんねん、くしゃはちねん)」などという言葉があって、そうたやすく理解できる代物ではありません。どの分野もちょっと探求し始めると奥が深いというわけです。
さて、そういうパウロの神学の言葉を子ども向けのカードに表すというのがまた至難の業です。「神の霊」と一言で言うけれど、いったい何じゃ? これをどう視覚化すればいいのだ? 悩みました。図式的に描くのは絵としてはあまりに低レベルなので、そういうことは絶対に避けるよう努めています。考えた末に、ここではとりあえず神の霊=イエスということにして(厳密に言うと同じではないのだけど)、イエスに手をとられ導かれている子どもを描きました。
しかし、掲載の絵のように表現すると今度は「神の子」は子どもをさす、という誤解を与えることになってしまいます。これも本当はそうじゃない。でもそれもまあ、子ども向けと言うことで勘弁してもらい、あえてそう表現することにしました。
神学的に必要にして十分な絵というのは不可能だし、そんなことばかりにこだわっては、かえって絵としては面白くも何ともない、特に子どもから見れば退屈きわまりないものになります。
余談ですが、ぼくはこの聖句カードシリーズで(というより、聖書にまつわる今までのどのイラストでも)まだ自分が満足できるイエスの顔を描けていません。描くたびに、どうもいまいち納得できていなくて、まだ試行錯誤の段階です。この1年間である方向が定まればいいのですが。
「聖☆おにいさん」の顔でも借りるか……。
聖句カードギャラリー 第8回 ― 2010年07月17日
うー、はっきり言ってこの季節にこのカードを紹介するのはあまりにマヌケだ。
今回紹介するのは、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の絵です。ペンテコステは、イースター(復活祭)の7週間後の日曜日にあたり、だいたい5月の終わりごろです。だから、今ごろ掲載するというのは、どうしようもなく季節外れなのです。
引用聖句は使徒言行録2.4。「一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」しかしここに描かれているのは、この聖句の前、弟子たちが聖霊を受けるところです。
ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祭りの一つなのですが、日本では教会に行ってなければ最も地味な行事です。教会暦では、イエスの復活の後、礼拝共同体としての教会が始まった重要な意味を持つ日なんですけどね。
ここでいう”霊”は聖霊のことで、幽霊や精霊ではありません。イエスが天に昇ったあと代わりに送られて、私たちに力を与え、導いてくれる存在なのです。
「ほかの国々の言葉で話しだした」というのは、神の言葉がそれぞれの言語で宣べ伝えられたこと(要するに伝道ですね)を示していますが、それは旧約聖書の「バベルの塔」でバラバラにされた人間の言葉が、聖霊によってふたたび結びあわされたことを意味するそうです。
聖書では、聖霊のことを「炎のような舌がわかれわかれに現れ」と書いています。それで、ごらんのような絵になります。
これが実に描きにくい。注意しないと、色も形も気持ち悪いものになってしまうのです。今のところ、自分で「これだ!」と納得できる表現を見つけていません。別の機会に描くときは、さらに工夫したいと思います。
聖句カードギャラリー 第7回 ― 2010年07月08日
久しぶりに聖句カードの紹介です。カードはちゃんと作っているんだけど、ここに掲載するのが遅れがちです。今回のは5月16日の分。うわー、2か月もたっちゃった。
引用聖句はヨハネ福音書17.1—13節から。十字架にかけられる前夜、弟子たちに別れの言葉を残し、そのあと神に祈る場面です。その中で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と言います。
ここの「わたしたちのように」というのは、イエスと神さまが一つであるように、の意です。ヨハネ福音書はけっこうくどい言い回しが多くて、和訳だととてもしつこく感じます。記憶すべき名言はもちろんたくさんありますが。
ヨハネ福音書の中心メッセージの一つは、父なる神さまが子なるイエスを通して現されたことです。で、神とイエスとの関係をイエスと弟子たちとの関係に結びつけるのです。だんだんややこしくなりますね。ま、とにかく、独特の神学を展開してますね。
絵では、天を仰いで祈るイエスの姿と、一つになる弟子たちを表しました。この弟子たちの構図は、何やら「三美神」のようですね。描いてるときはそんなこと考えていませんでしたが、今になって、そんなことに気づきました。三美神ももしかすると、ある種「一体感」を現しているのかな。
さて、W杯の最中なので、最後にむりやりサッカーの話に持って行ってしまいますが(笑)、日本代表の一体感が短期間でできあがったのは、やはりスポーツのなせるわざでしょうね。組織の理想型は、構成員がお互いの違いを認めつつ、一つの目標に向かって一体となった状態でしょうね。そのときに組織は強くなれるのです。
聖句カードギャラリー 第6回 ― 2010年05月28日
第6回 5月9日 ヨハネ16.24 「あなたがたは喜びで満たされる」
今回から絵を頭に持ってきます。
この聖句もイエスが弟子たちに言った言葉ですが、これだけだと短くてよくわかりませんね。少し前から引用しましょう。「あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」というものです。
クリスチャンの祈りは、最後に「主の御名によって祈ります」という言葉で締めくくるのですが、願いも懺悔もとりなしもすべて、主イエスを通して神様に届けるということなのです。この聖句はそのことを言っているのだけど、でももう一つ、「願いなさい」という部分にも注目したいですね。願えば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる、というのですよ。
私たちは、どこかで遠慮してしまったり、あるいはいろんなことに無関心になってしまったりして、願わずに過ごしてしまっていることが意外に多いような気がします。「欲する」というのではなく、「願う」ということをもっと積極的にやっていいのではないか、ということを思うことがあります。
抽象的な内容なので、絵では現代の子どもたちを描きました。男の子のTシャツの文字はおわかりのように「JOY=喜び」です。女の子の服装は、洋品店の折り込み広告を見て調べました。昔、あまり考えずに描いていたら、子どもたちから「お父さんの描く人物はヘアスタイルも服装もぜーんぶ古くさい」と言われたので、それからは注意してます。









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