連休の過ごし方2012年05月04日


ほつれ髪の女

 先月は一度も記事を書きませんでした。忙しかったという単純な理由ではありません。年度が変わって、ぼくの周りにもいろんな変化があり、ぼく自身も仕事や生活が単純にこれまでの繰り返しではありません。ブログについても、これから何を発信していこうか考えています。大きくは変わらないのですが、これまでもまだ思い通りにいっていないところがあったし(やり始めて挫折しているシリーズものがある)、また、これまでより発展させたい部分もあるし。あれこれ考えていたひと月あまりでした。
 さて先月、展覧会としては、大友克洋原画展に行き、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展にも行きました。それらのことも報告したかったけれど、書き始めるといろんなことを語りたくなって、なんだかんだ文章を考えているうちに、結局時間がなくなってしまうのです。
 とりあえず今日は、ダヴィンチ展の目玉作品、「ほつれ髪の女」を掲載します。お土産の絵はがきから。いやあ、美しい絵でした。しばらく絵の前にたたずみ、絵と対話をしていました。こんな奇蹟のような絵を見ていると、涙が出てくるんですよ。

 息子がこの春、大学に無事合格したおかげで、またお金があっという間に飛んでいって、連休はどこへも遊びに行けません。でも別にかまわないのです。というか、自分の仕事や創作に気持と時間を注ぐことができるいいチャンスと考えています(と言っても、連休ももう終わりですが)。
 今日もお昼ごろに、いつものように公園内を10km 走りましたが、この季節は花水木がきれいです。毎年見ているのに、今年はなぜか花水木につい目が向きます。桃色の縁のある花びらもいいし、白い花びらもいい。辛夷にしても花水木にしても、花の白色はなぜあんなに輝いているのでしょうね。
 チョウもあちこちで飛んでいました。自然や昆虫のことも、また写真とともにお話しできそうです。
 

安野光雅の絵本展2012年03月17日

 「安野光雅の絵本展」を昨日、見に行きました。板橋区立美術館で開かれています。今月25日まで。
 いい展覧会は、人を慰め、気持をワクワクさせ、新しい方向へ押し出してくれる力があります。この展覧会もそうでした。知的で、いい意味の品の良さを感じさせる、柔らかい線と色の原画を眺めながら、しばらくの間、安野ワールドに浸ることができました。しかし、ひとくちに安野ワールドと言っても、ものすごい広がりと奥行きを持っていて、とても一言で語ることはできません。

 すぐれた表現者は皆そうなのですが、新しいものと伝統を見事に融合させます。具体的に印刷技術の観点から説明しましょう。
 今の時代、デザインやイラストの世界ではコンピュータがなくては仕事ができませんが、ややもすればコンピュータにおんぶした安易な作品しか作らなくなってしまうことがあります。それには時間や費用の制限がもちろん要因の一部としてあるのですが。
 一方で、コンピュータという文明の利器を、やみくもに毛嫌いする人もいます。 かたくなに昔のやり方を守り続けるというやり方。それはそれで一つの方針としてありうるのですが、人によっては、実は新しい考え方についていけない、頭が固くなっているだけ、ということもあるのですね。そういう人たちの作品はたいていつまらないものです。
 で、すぐれた芸術家は、時代の新しい技術を使いつつ、同時に古くからの伝統も研究して、それらを調和させて、よりレベルの高い作品を作っていくのです。画家であり、デザイナーでもある安野さんは、それをやっているわけです(他にも、太田大八さん、堀内誠一さんもそういうタイプ。詩人で言えば、谷川俊太郎さん)。

 ぼくは日ごろの自分の仕事が、安易にコンピュータに乗っかったものに流れてしまっていることを、安野さんの作品を見ながら、つくづく思わされたのです(いつもうすうす感じてはいるけれど)。手作りを大切にしつつ、印刷の特性もちゃんと生かして、洒脱な表現を掘り下げていく姿勢は、見ていて頭が下がります。
 加えて、数学的発想。ぼくの苦手とする分野。しかし、その数学の面白さを絵本で楽しく伝えようとする姿勢にもまた感服するのです。
 さらに安野さんは、すぐれた文筆家でもいらっしゃる。味わいのある文章を書かれます。古典の素養もお持ちだから、言葉への感覚が鋭い。
 ああ、やっぱり一言では書ききれない。またどこかで続きをお話ししましょう。
 いいですね。こんな生き方ができたら。

武蔵美芸祭2011年10月31日


鳥ではありません。花です。

夕方のキャンパス

 武蔵美芸祭に行ってきました。天気が良くて良かった。
 ところで上の写真は展示物ではなくて、駅から大学までの玉川上水の土手に咲いている「ほととぎす」 。花の名前です。きれいなので、通りがかりに撮影しました。スケッチする時間はありませんでした。下は、もっと面白い風景を撮れば良かったかな。でも、雰囲気は分かるでしょう。

 美大や美術学校の芸術祭は本当に楽しいですね。いつも行くたびに心が躍ります。だって、さまざまな色や形がそこら中にあふれているから。作品だけじゃなく、学生たちがまた面白い。7割くらいは女子学生で、武蔵美もなかば女子大化している印象がありますが、さまざまなコスチュームがキャンパスを歩き回っているのです。
 刺激になります。若い人から力をもらう、という表現がありますが、本当にそのとおりです。こんな発想、こんな造形、こんな色彩、こんな線があるんだと、目を見張ります。どんなに忙しくても、こういうイベントを見に行くことは怠りたくありません。仕事だけやっていると、感覚の幅が狭まってきてしまうのです。
 美大の学園祭というと、恐らくほとんどの人のイメージは、 油絵か日本画で、どこかのギャラリーみたいに絵が展示されていて、静かにそれらを見て回る、というものではないでしょうか。しかし実際にはかなり違います。特にデザイン関連の学科は、関わる分野が驚くほど広がっていて、面白い試みをしています。単なる学生の遊びだけでもないのです。遊びから出発しながら、高いレベルで作品を結実させているものも結構あります。
 中学や高校の文化祭とはその辺がさすがに違いますね。

 面白いのは(毎年思うのだけど)、食べ物のお店は、肝心の料理や飲み物がおいしくなくても看板だけは力を入れて製作しているところ。美大ですねえ。

フレデリック・バックの大いなる孤独2011年09月25日


「木を植えた男」のDVD


 おととい(23日、金)、妻といっしょに東京都現代美術館へフレデリック・バック展を見に行ってきました。
 コンサートと同じように、いい展覧会はいい余韻をずっと残します。拙劣な比喩だけど、前回見た国芳展が川縁かどこかでゴザを敷いて、陽気に飲んで楽しむ日本酒の味わいなら、金曜日に見に行ったフレデリック・バック展は、森の中で木製のテーブルを囲んで、人生をしみじみ味わいながら飲むぶどう酒の味わいです。どちらもおいしくて、どちらも体にいい。その余韻が、さらに時間とともにまた発酵して、私の中に新たなクリエイティヴィティーを生み出します。

 20年以上前に、アニメの常識を破る「木を植えた男」の衝撃でフレデリック・バックのファンになり、本も買ったりしましたが、今回の展覧会でさらにバックのバックグラウンドを(オヤジギャグではありません)学べて、いっそう理解が深まりました。
 
 展覧会の前半ではひたすら学生時代や若いころのスケッチが展示されています。それが延々と続き、その数に圧倒されます。しかしそれらはそれぞれ一個の絵として完結しているものではなく、あくまで修行の作品です。スポーツで言えば、鑑賞者は基礎練習や筋トレを見ているような感じで、ゲームを見ているのではありません。だから変化に乏しく、ある意味退屈になるのです。それにしてもその作品点数と1枚1枚の描き込みには、圧倒されます。風景や人物や建物、衣服、動物、ありとあらゆるものを描きまくっている。手抜きをせずに。
 絵を描く行為は大変孤独な作業です。そこが音楽とちょっと違うところ。人と旅行をして絵を描くことはまずできません。一人旅に限ります。旅行だけじゃありません。身の回りのどんなものを描くにしても、いったん描き始めたら、そこから孤独な空間と時間が始まります。和気藹々と絵を描く、というのは、そういう目的でやる特別なイベントでもない限り、不可能です。人に気を使い始めたら絵は描けなくなる。
 そして世の中の大多数の人たちは絵を描かなくても生きていけるわけだから、そういう環境で絵を描くためには、意識してその時間と空間を作り出さなくてはいけないと言うことなのです。 
 バックは(いや、絵画の偉大な作品を造りだす人たちはすべて)どれだけの孤独な時間を費やしたことだろう、とスケッチを見ていて思いました。フランス生まれのフレデリックはカナダに移ってから結婚します。その奥さんが、旅行中、自分が絵を描くのをずっと待っていてくれたそうで、そのことに感謝しているフレデリックの言葉が、会場に掲示されていました。あとで妻とそのことを話したら、「あたしにはできないなあ」と言ってました。ほんとうにそうです(笑)。
 
 展覧会の後半に入って、絵の基礎練習が見事に開花するのを私たちは目撃します。そこ展示されている作品群の多彩さをどう表現していいのか。ぼくは日本の堀内誠一さん、太田大八さんを連想しました。多岐にわたって優れた仕事を残している点が共通しています。引き出しをいくつももっているのです。ポスター、絵本、TV番組、ドラマのセット、あらゆる分野に、それまで体に覚えさせてきたあらゆる形や表現方法がすべて生かされるのですね。見事と言うしかありません。ぼくが鈍感にも退屈と感じてしまった膨大なスケッチがあればこそ、これらの仕事ができたのだと言うことがわかるのです。クライマックスはもちろん「クラック!」「木を植えた男」などのアニメです。これらの作品は、日本やアメリカの商業アニメとは根本的に異なります(ただし、私はここで商業アニメを低く見ているのではありません)。原画のほとんどを(「木を植えた男」の場合、約2万枚)一人で描いたという点です。これは空前絶後のことです。
 もちろん、高いレベルで偉大な作品を創りあげているアニメの個人作家は他にもいるわけですが(ロシアのノルシュテインを挙げないわけにはいかないだろうけれど、私は勉強不足なので、これから見ていこうと思っています。同じくロシアのペトロフによる「老人と海」は「木を植えた男」に通じる名作です。これまた感動もの。あ、イギリスの「ウォレスとグルミット」シリーズを作っているニック・パークもいいなあ。DVD集めたいなあ。と、だんだん話が逸れていく)、気の遠くなるような作業によって作品を創りあげる、数少ないクリエイターの一人であることは確かです。
 展示されている原画セル(たくさんあったのだけれど、それも全体のほんの一部でしかない!)を見ていて思いました。ここには大いなる孤独がある。想像を絶する集中力と忍耐力で膨大な絵を描き上げた末にできあがる芸術品。そうか、この人は、絵を描く作業を通して、自分の世界を若いときから恐ろしいくらい追求し、広げ、豊かにしてきた人なのだと。凡人の「孤独」とは定義が異なるのです。それはまた、北斎やダ・ヴィンチと通じる世界です。
 フレデリック・バックもまた、若いときから今に至るまで、「満ちてゆく孤独」という点で、一貫した道を歩んできているのです。

国芳展 後期展示2011年07月23日


百色面相
 太田美術館で開かれている国芳展の後期展示に行ってきました。ほんと、面白かったです。笑えますよ。前期展示とはガラッと変わった内容。それでもって、やっぱり国芳。
 The more I get to know Kuniyoshi, the more I get to like him. 
 
 今回もまた、おおいにインスピレーションを受けましたね。得るものがたくさんありました。
 生家が染物屋だったそうですが、それだけに着物の模様のすばらしさは目を奪うものがあります。よくこれだけのものが描けると思います。一つ一つじつにていねいに描かれています。まあ、着物だけじゃなく、人の表情も建物も全部ていねいなんだけどね。
 美人画になると、顔が約束事の企画ものになってしまうのだけれど、それ以外の作品では、実に豊かな表情(特に男の顔)を描いています。掲載の絵をごらんください。

 現代に生きていたら、間違いなく超一流のマンガ家であり、アニメーターであり、グラフィックデザイナーだったでしょう。人を含め、生きている者たちへの愛情にあふれています。そしてユーモアと反骨精神。
  とくにユーモアと反骨精神には改めて教えられます。当時、役者絵や美人絵を風俗を見出すという理由で、幕府からことごとく禁止されるのですが、それを国芳はことごとく逆手にとって、猫や雀を擬人化した絵にすることで、より面白いものを創りあげてしまうのです。こういう柔軟かつ不屈の精神は見習いたいものです。

 江戸文化はほんとうにすごいなあ。と、改めて感動するのでした。江戸だけじゃない。日本文化がすごいのだ。

2度目のクレー展2011年07月08日


「嘆き悲しんで」

 火曜日(5日)に、国立近代美術館へ「パウル・クレー おわらないアトリエ」展を見に行ってきました。英語のタイトルは "Paul Klee: Art in the Making 1883-1940" 「終わらないアトリエ」って、意味不明の言葉ですね。英語から察するに、「制作中の、発展途中の芸術」というのが主催者の意図のようです。
 いい展覧会でした。クレー展はこれで2度目。僕の大好きな芸術家の一人です。見るたびに刺激があり、創作の霊感を与えられます。カンディンスキーやミロも好きですが、個人的好みとしては、抽象画・現代蛾の分野でやはりこの人の右に出る人はいません。
 展覧会では、年配の人が多いのですが(時に、作品の前で知識をひけらかしたりしている)、この展覧会は男女を問わず、幅広い世代の人たちが見に来ていました。日本での人気の高さが伺えます。
 ドイツ語圈意外の国で、日本ほどクレーの作品が展示され愛され研究されてきた国はないのだそうです。日本人の美意識に通じるものがあるに違いありません。日本人は印象派が好きですが、印象派は浮世絵の影響を受けています。クレーの絵にもそういう日本美術や印象派との共通点があるのではないでしょうか。僕自身はまだその辺を解明していません。
 今回、今までのクレー展との大きな違いは、クレーの具体的な制作方法を紹介しながら分類し、展示しているところです。これはイラストレーター、グラフィックデザイナーとしてぼくにも非常に興味のあるところで、参考になりました。

 道具、材料、制作手順、というのを学ぶのはとても大切なのです。よく美術番組では、作者の精神や心といった面ばかりに焦点が当てられて、そこから作品が解説されていますが、あれって偏りすぎですよね。あんなことやってるから、芸術って、いわゆる括弧付きの、現実離れした世界のような印象を与えてしまうんです。
 お金や時間や人間関係といった、もっと具体的なところから作品や仕事ぶりを解説する重要性を、多くの人が知った方がいいと思います。
 その意味で、この展覧会は、ちょっと価値があります。ま、それほどめちゃくちゃ具体的でもありませんけど。

 会期は7月31日まで。

ぶっとび「国芳展」2011年06月25日


左下のカラス天狗たちがいい
 最近はすっかり週末更新になってしまいました。それも数週間に1回。閑古鳥が鳴いてますね。もうちょっとがんばろう。
 さて、今日、原宿にある太田記念美術館へ「国芳展」を見に行きました。展覧会もこのところなかなか行けずにいるのです。忙しくて儲かってるかというと、全然そう言うことなくて、ただの貧乏暇なし。日常生活の中で文化活動が減ってくると、精神的に窒息状態になってきて、良くない。涸れてくるのです。そこからいいものが生まれるわけありません。

 歌川国芳については、去年もこのブログで取り上げました。一年前に展覧会を見に行っているのです。すっかりファンになり、あれだけでは飽きたらず、もっと知りたいと思っていたから、今度の展覧会は何としてでも行きたいと思ってました。
 前期展示が明日まで。後期展示は内容をすっかり入れ替えて7月1日から28日まで。今日は前期に滑り込みセーフ。もちろん後期も行くつもりです。
 期待に違わぬ内容でした。やっぱり国芳はすごい。「ぶっとび国芳」は僕の勝手な命名だけど、今もぴったりのネーミングだなと一人で感心してます。は今や僕の好みとしては、北斎、広重に並ぶ浮世絵画家ですね。ああ、しかし江戸の画家としては他にもいろいろ好きな人がたくさんいるから、これだけに限定するのは無理があるなあ。
 今回は骸骨の版画も見ることができました。図録も買えました。よかった、よかった。
前期は武者絵や妖怪画などが中心でしたが、これらがすごいのです。発想がすごい。妖怪の造形がすごいし、構図がすごいし、また配色がすごい。妖怪は水木しげるに通じるものがあって、怖いと言うより、笑えてしまうものが多いのです。国芳の人柄なんでしょうか。人なつこい画家だったんだろうなあ。

 この人、今生きてたら、CGを駆使してめちゃくちゃ面白いものを作っていただろうと思いますよ。とにかく時代を200年先んじてることを実感しますから。今、漫画に使われている技法をすでに編み出しているのですね。すごいですね。
 後期展示は、からくり絵が中心になります。これまた楽しみです。現代に通じるウィットを楽しもうと思ってます。
 興奮のあまり、ほとんど脈絡のない文章になりました。このあと、少しずつ手を入れていきます。では。

佐藤忠良展2011年03月01日

 先週の土曜日に世田谷美術館へ「佐藤忠良展」を見に行きました。3月6日までなので、今日行かなかったら、もうチャンスはないと思い。
 皆さんのよくご存じのところでは、絵本『おおきなかぶ』(福音館書店)の絵を描いた人として有名ですね。彫刻家なのですが、もともと画家を目指していた人で、どちらも非常に高いレベルで作品を造っています。ものすごい刺激を受けました。去年の赤羽末吉展と同じくらいの感動。
 ……というより、いつものことだけど、打ちのめされるのです。自分の力のなさを思い知らされて。自分としては、仕事はいつもベストを尽くしているつもりだけど、これじゃあだめだなあ、と心底思ってしまう。
 でもね、本物の感動は人を立ち上がらせてくれるんです。だからぼくは、いったん打ちのめされてから、今度はもっと大きな力を得て立ち上がることができる。美術に限らず、どの分野でも、どうだ、おれってすごいだろ、と自分の力を誇示するだけの作品(仕事)や人は、相手を打ちのめすだけで、力を与えることはないだろうし、従って、感動を与えることはないのだと思います。佐藤さんの作品は違う。見る人に手を差しのべてくれるのです。

 佐藤さんの作品は、彫刻にも絵にも気品があります。対象に対する、そして美術制作に対する誠実さと謙虚さが感じられるんですね。変なごまかしに逃げない。あざとくない。虚飾性を廃した写実性は、ぼくの好きな画家、ワイエスに通じるものがあります。
 静かにたたずんでいる絵や彫刻であっても、内側からあふれてくる深い力があるから、いつまでも古びない。見飽きない。『おおきなかぶ』が決して滅びず、今でも読み継がれているのは、小手先のテクニックで描いているのではないからです。
 今流行の、こんな描き方でやっておけば受けるんじゃない、というずるさがない。といって、へんな芸術家気取りで、強調性のない自己主張的表現を押し通す偏狭さもない。具体的な絵本という形式からくる数々の現実的な条件をしっかりふまえながら、制作しているのです。そこは赤羽末吉さんに通じるものです。

 ぼくは彫刻はやっていないので、それに関してはもっぱら鑑賞者として味わうだけで、制作者側の目で見ることはできないのですが、絵の方では、デッサンの仕方、挿絵の描き方などで、具体的に示唆を受けることがたくさんありました。そうか、こんなふうに描くのか、こうも描けるんだ、という驚きと喜び。そして、いま与えられている仕事で、また新しい工夫ができそう、という光が見えてきました。
 忠良さんのような仕事がしたいものだと思います。でも、そういうレベルに至る道は結局、平凡な結論なのだけど、一つ一つの努力の積み重ねなのでしょう。